腹の虫/小林エリカ

お腹にはそう、奴がいた。腹巻きの概念が変わる短編

2017年11月 特集:ははとむすめ
テキスト・絵:小林エリカ 編集:野村由芽
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私はその日、とにかく機嫌が悪かった。
雨は降っていたし、生理だったし、足はだるいし、財布も落とした。
おかげで、仕事は失敗ばかりで、恋人には喧嘩をふっかけ、昼休みにコンビニのポテトチップスをまるまるひとふくろ食べ尽くしてもなお、私の機嫌は最悪な状態だったのだ。

私はすっかりやさぐれたまま、オレンジ色のキャップのペットボトルを握り締め、会社のビルのエレベーターを待つ行列に並んでいた。そこへふらりと彼女は現れた。それから彼女は、私をひと目見るなり、こう言ってのけたのだ。
「随分と腹の虫の居所がお悪いようですね。」
正直、その時の私は、もう頼むから放っておいてください、ひとりにしてください、という気分だったし、その多分に失礼な挨拶にも腹が立った。そもそも誰、私は、彼女を知らなかった。

私は、はあ!? と顔を顰めて、彼女を睨みつけた。
彼女は特にこれといった特徴のない、三秒後にはもう忘れてしまいそうな顔をしていた。
彼女は、私に睨まれたところで微塵も動揺する様子もなく、きっぱりとこう言ったのだ。
「あなたは腹の虫の声にきちんと耳を傾けなければなければなりません。」
腹の虫の声?
彼女は大真面目な顔で続けて言った。
「腹の虫の声を聴かなければ、腹の虫はその居所を失ったり間違ったりしてしまうのです。腹の虫の居所が悪ければ、あなたの機嫌もわるくなりますし、それは双方にとって、大変よろしくないことです。」

それから彼女はおもむろに私に一枚の白いふかふかとした布を差し出した。
「これを腹にお巻きなさい。」
私はその怪しげな布を手渡され、戸惑った。
しかし、それは一見したところ、ただごくありきたりな腹巻きだった。
見れば彼女も、それと同じ腹巻きを、わざわざワンピースのスカートの上から巻いている。
「第一、腹が冷えると、腹の虫にもよくありませんからね。」
私の目の前でポーンと音がして、エレベーターの扉が開いた。
「自分を大切になさい、とはいいませんが、腹の虫は大切になさい。朝晩、きちんとその声を聴くべきですよ。」
彼女はそれだけ言い残し、エレベーターにも乗らず、去っていった。
宗教か何かかとも思ったが、特に何かに勧誘されたり、金を巻き上げられたりすることもなさそうだった。
そして、実際、彼女が去って三秒以上経った今、私は彼女の顔を全く思い出すことができないのだった。

私は、彼女から貰った腹巻きをただ手に握り締めたまま、自分の腹を見おろした。
まさか。
いや、しかし、この腹の中には、本当に腹の虫というやつがいるのだろうか?
とにかく私はそのままエレベーターに飛び乗った。
それから私は、その腹巻きを広げると、そこへ足を通し、腹のところまで引っ張り上げた。ジーンズの上に腹巻きをつけてみた。勿論、まわりの人たちは、ぎょっとして、はっきり言って、ひいていた。けれど、私はそんなの少しも構わなかった。
エレベーターの数字のランプが点灯と点滅を繰り返す。
そうしながら、ゆっくりと上昇してゆく。
私は一刻もはやく、私の腹の虫の声を、ちゃんと聴いてみたかったのだ。

PROFILE

小林エリカ
小林エリカ

作家、マンガ家。著書は"放射能"の歴史を巡るコミック『光の子ども1,2』(リトルモア)、短編小説集『彼女は鏡の中を覗きこむ』(集英社)など。小説『マダム・キュリーと朝食を』(集英社)で第27回三島由紀夫賞候補、第151回芥川龍之介賞候補。他にはアンネ・フランクと実父の日記をモチーフにした『親愛なるキティーたちへ』(リトルモア)、展示はTHE FUTUREとの『Your Dear Kitty,The Book of Memories』(The Lloyd Hotel /アムステルダム)『六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声』(森美術館)他、作品集に『忘れられないの』(青土社)などがある。

INFORMATION

イベント情報
『子ども時代 Childhood』

11月14日(火)〜11月25日(日)
会場:東京都 ユトレヒト
時間:12:00〜20:00
休館日:月曜日
料金:無料
http://utrecht.jp/?p=24093

イベント情報
『Trinity トリニティ』

11月29日(水)〜1月14日(日)
会場:長野県 軽井沢ニューアートミュージアム
時間:10:00〜17:00
休館日:火曜日、12月26日(火)〜1月1日(月)
料金:無料
https://www.artagenda.jp/exhibition/detail/1801

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