コンプレックスは、私にはありません。
いいえ、それは嘘です冗談です。
ただしそれは悪い冗談ではない。
コンプレックスについて、女性のために、ひらかれた場所で、滔々と語るなんていうことを、私たちはしない方がいい。
コンプレックス、小さいものから大きなものまで、誰の身体のなかにもそれは渦を巻いているだろう。鼻が低い、肌や髪が綺麗じゃない、背が低い、生まれて育った場所が理想とちがった、お金がもっと、欲しかった。自分以外の人たちのように。
コンプレックスをいっそ宝物かのように、自分の証のように並べ立てて眺めていじり倒すのは、精神衛生上、よろしくない。
たしかにほかの誰かと比べてしまうことを人間の世界で生きている以上私たちはやめられないだろう。私が生まれた時代より、今の世界はもっと、隣の人との比較が容易になった。見る気なんてなくても隣の芝生が青々と盛大に見えてしまう。
私がうんざりするのは、女たちのための場面であまりにも、こういう感情について語られすぎるということだ。
嫉妬。コンプレックス。マウンティング。そんな感情について、何かを語って欲しいという依頼がある、よくある。
女の嫉妬やコンプレックス、誰がそれを見たいのか、私たちは今よく考えるべきだ。そんな感情をテーブルに置いて眺め回すだけの遊びから、今すぐ席を立って出かけるべき場所が沢山あるはずだ。
女性の前に立ちはだかりなんとかしなくてはいけない壁はコンプレックスなんかではない。劣等感と、劣位に置かれる現実は、区別しなくてはいけない。
私は女に生まれて劣位に置かれる場面に何度も居合わせた、だからそれを変えたかった。席を立ちたかった。ただし女に生まれたことに、劣等感などない。当たり前のことだけど、時々混同している人を見る。実はそれらはとても上手いこと絡み合っているのだ。劣等感つまりコンプレックスは自分自身で自分を引き裂く。仲間同士で仲間を引き裂く。だから後生大事になんかしてはいけない。
女を劣位に貶めたものの正体はコンプレックスだ。誰とは言わないが、競争に疲れて癒されない人たちのために弱者を作った結果がこの世界だ。この競争を、誰が何のために作ったのか、考える必要があるだろう。小さなことから大きなことまで、女だけではなく男だって皆がそれに苦しめられている。鼻が低いことはなぜコンプレックスを生むのか? 顔が大きなことが、胸が小さなことが、性器の小さいことや加齢が、暴れる力が弱いことが、中央である東京よりある地方にいることが、なぜ敗北感を生んで自分の心をきゅっと締め上げるのか、そんな人間を沢山作ったら誰が得するのか、考えた方がいい。コンプレックスそのものを武器になんかしなくていい。なかったことにしてもいい。
なぜならそれは、ある必要がもともとなかったものだから。
コンプレックスはありません。皆で堂々と良いウソをつきませんか。その代わり、ほんとうに掬い上げるべき劣位に置かれた現実を、目を凝らして見つめたい。