主宰する劇団「贅沢貧乏」の新作公演『フィクション・シティー』のキャッチフレーズに、「わたしは、フィクションなんかに救われない」と書いた。このフレーズをめぐるエッセイを依頼されたわけだが、今年に入ってから狂うほど考えている「フィクション」という言葉は、あまりにも広義で一見捉えようがない。そこで、この「フィクション」という言葉をいったん「ブラジャー」に置き換えて話してみようと思う。
日本の女性は、毎日ほとんど自動的にブラジャーをつけてから一日を始める。乳の型崩れの原因となる揺れを防止するためなどの実用性・機能性以外にもその理由はありそうだ。綺麗なレースやリボンのついたブラジャーのことを考えると、誰にも見られないところも可愛くありたいという女性の美意識が垣間見えるが、もちろん男性の視点がブラジャーの存在に大きな力を及ぼしていることは否めない。
注意しておきたいのは、ここでフェミニズム論を展開してブラジャー解放運動を始めようとしているのではないということ。夜のデートを控えた朝、どのブラジャーにしようかと選ぶことは、一人の女として大切なことだと肯定もする。むしろ重要なのはこの「選ぶ」ということだ。選択するという自発的な意識がそこに介在しているかどうかにある。
そもそもブラジャーをつけなければいけないという法律や決まりはない。着脱の自由は常にあるはずなのだが、それをどれくらいの女性が意識しているだろうか。多くの女性がワイヤーの締め付けや、肩にかかるストラップによる肩凝りを感じながら、乳首をTシャツの下に透かせてはいけないという社会からの無言の圧を受けているように思う。
調べてみたところ、日本において今のような形態でブラジャーが普及したのは50年程前からで、歴史は浅い。また、洋画を見ているとカフェで話している女優のシャツに乳首の突起が見えていたりして、まじか、と思ったりする。だとすれば、この日本における「ブラジャーをしなきゃいけない」という空気は、この50年くらいで作り上げられた現代社会の物語のひとつであり、本来は絶対的な必要性も強制力もないフィクションであることがわかる。
およそ7万年前に大脳の突然変異で(諸説あるらしいが)認知革命が起きてから、人類は猛スピードで目覚ましい文化的発展を遂げてきた。しかもその背後には、凄まじい発想と想像力によって作り上げられた膨大なフィクションがある。ここでのフィクションとは、見えないし、存在するかも本当はわからないものを産み出し、信じる力のことだ。
例えば古代ギリシャから始まる身分制度や、神話、宗教、貨幣、法律、社会規範、性別による社会的格差、ブラジャーにいたるまで、今でも当たり前に通用しているこれらを、フィクションだと言い放ってしまうのは確かに抵抗がある。これらは、ある決まりごとに真実味と実行力をもたせるために、無数のルールと設定を張り巡らし、非常に綿密に作り上げられた強固なフィクションだからであり、しかも多くの人間が当然のこととしてそれらを信じ、守ることで、人間社会の体裁が整えられているからだ。
確かにそれらは、わたしたちにある種の秩序と平穏をもたらしているのかもしれない。だが、わたしたちを取り巻くあらゆる「決まりごと」について、元々そうだから、それが正しいから、と思考を停止して受け入れてしまうことは、とても危険なことのように思える。というのも、それらはわたしと同じ不完全な人間が、不完全なりに作ったものでしかないからだ。わたしが正しいと思ったことが、誰かにとっては正しくないように、全てにおいて絶対的な正しさなど存在しない。とりわけ宗教や国などを盲信するが故に生まれた無数の悲劇は、周知の通りだ。
先人たちが頭を絞ってつくってきた(あるいは何となくつくってきた)あらゆる法律、社会規範、常識を有難く受け止めながらも、所詮全部フィクションなんだからさ、という距離感を持っていたい、とわたしは考えている。
ちょっと演劇の現場に置き換えてみる。例えば物語の世界にべったり張り付いて自分がどんな演技をしているのかも把握していない俳優を見ると、わたしはその俳優をすこしそこから剥がしたくなる。もう少し冷静に、周りをみて、自主的に選択しながら演じてほしいと思ってそれを伝えたりする。もちろん感覚的な演技や偶発的に起きた芝居も好きだが、それだけでは舞台の世界は成り立たない。俳優には常に自分を正確にコントロールする能力が必要なのだ。
一方、舞台の上の世界にどっぷりと浸かった観客は、様々な出来事に一喜一憂し、登場人物に感情移入し、涙したり笑ったりしてそれを楽しむ。そしてカーテンコールが終わり劇場の外にでたら、一緒に観ていた友人と物語の設定や展開、その解釈について議論したり、一人家に帰って反芻し熟考したりするだろう。「観客」という視点でそのフィクションを検証し、最終的に自分なりの解釈をするわけである。
社会的なあれこれとべったりくっつかず一定の距離感を持ち、最終的な選択権は全て自分にあるんだと改めて自覚してみると、その隙間に余裕と責任が生まれる。それは、思考を停止してあらゆるルールに縛られて窮屈に感じる(あるいは窮屈であることすら忘れる)よりも、ずっと自由で豊かなことなのかもしれない。たまには会社にノーブラでいってみたら、あんまり肩が凝らないかもしれない。見えていない選択肢は無数にあるのだ。
9月28日から上演予定の『フィクション・シティー』(※)では、ブラジャーの話は一切出てこないが、わたしを悩ませる広い意味でのフィクションや、大好きな物語と楽しく戦っているのでぜひ観に来ていただきたい。
(初出:「新潮」2017年10月号)
※こちらは「新潮」(2017年10月号)に掲載された原稿を転載したものとなります。次回公演については、劇団のオフィシャルサイトをご確認くださいませ。