都市と温泉地、それぞれ異なる趣向を凝らしたストリップのロマン
ストリップ鑑賞に興味を持ったことはあるものの、まだ一度も行ったことがないという人が大半だと思う。わたし自身、昨年友人から誘われ実際に劇場を訪れるまでは漠然とした知識と好奇心をいっしょくたにまとめ保留にしていた。今にしてみれば正直甘く見ていたのだと思う。薄暗いステージの上になまめかしい女性が登場し、それを囲んだ男性たちが熱い視線を投げかける。たとえばこんなふうに、イメージできる以上のことは起こらないと決めつけていた。しかし、鑑賞後の全身に流れ込んでいたものは、火照りという形容では到底足りない“熱”そのものだった。
日本国内におけるストリップという文化は70年の歴史を誇る興行で、女性が音楽にあわせて踊りながら衣服を脱いでいくショーのことを指す。胸と腰のみを薄い布で隠した女性が額縁の中で名画のポーズを再現する「額縁ショー」からはじまり、そこに踊りの要素が加わることで現在の様式へと変化を遂げた。
昭和のはじめの全盛期には300軒以上の劇場が存在し、各自が他の出演者との差別化を図るため独自の魅力や技巧に趣向を凝らしていたわけだが、そんな中で「花電車」と呼ばれる演目が誕生することになる。これは踊りの種類ではなく女性器を使用したパフォーマンスの呼称で、煙草を吸う、りんごを切る、挿入した筆で習字をするなど様々な人間離れした芸当を持つ女性が数多く存在した。ちなみに、祝賀のために花で装飾された路面電車をそのまま語源としており、客を乗せないこの電車が「売春行為は行わない、見せるだけの芸」という意味に転じたという。昭和特有の言語感覚は、風情があって目眩がする。
平成の終わりを目前に控えた今、ストリップ劇場は全国あわせて22軒という数まで減少してしまった。かつてのように多様なパフォーマンスをこなせる人は少なくなったものの、それでも100人ほどのストリッパーが現役で活動し、全国各地の劇場を飛び回っている。これまでのキャリアは様々で、年齢も20代から70代と幅広い。
地元に根ざして55年。熱海銀座劇場のストリップ文化への愛
都市の劇場ではスポットライトに照らされたステージに代わるがわる女性が登場し、拍子抜けするほどキャッチーな曲や作り込まれた衣装を用いてアイドルさながらに踊りをこなす。つまりある程度までは大衆向けに作られており、ショーとしての要素が強い。それに対し、かつて地方で栄えた温泉地の劇場は、誤解を恐れずに言えば見世物的なニュアンスが強く、ワンルームほどの小部屋のようなスペースで時には一人の女性が演目をこなす。照明や音響の係りは存在せず、歓楽街でお酒を飲んだ後の男性や、社員旅行の記念に訪れる観光客がターゲットだ。それぞれに別種のロマンを感じるが、「花電車」というのは温泉劇場特有のものらしい。
実際の雰囲気を知るために、55年の歴史を持つという「熱海銀座劇場」へと訪れた。「花電車」とも所縁の深い劇場である。劇場主にお話を伺うと、「温泉地ではじめにストリップを行ったのが熱海」だということ、そして「今ではこの場所が伊豆地方に現存する唯一の劇場」だということを教えてくれた。
しかし、ストリップの歴史の頭角にあるといっても過言ではないそんな熱海銀座劇場ですら、Twitter上で踊り子募集のSOSを表明せざるを得ない局面が昨年訪れ、この投稿がストリップファンの間でささやかな話題となった。地元の踊り子の高齢化にともない出演者が不足し、存続の危機に見舞われたことが呼び掛けの理由だという。
都会・地方に関わらずストリップ劇場というものは全て遠征してくる踊り子によって成り立っているものだと思い込んでいたわたしは、地元の踊り子を雇い長期的にビジネスパートナーして歩む形態の存在を知って驚いた。巡回を迎え入れるようになったのはいつ頃からなのかと尋ねると、たった三年前だという。「地元に根差してきた文化を絶やさないためにも、時代に沿って柔軟に対応することで運営を続けていきたい」という意思を伺い、前向きな現状に安堵した。
また、劇場主はしきりに「この場所は踊り子とお客さんの距離感が近く、コミュニケーションがしっかりと存在する」という温泉街の劇場ならではの強みを推していた。ストリップそのもののどういった箇所に魅力を感じるかという質問を最後に投げかけたところ、「やっぱり、女性から見ても人を惹きつけるものがあるからね……」としみじみした口調での答えが返ってきた。ストリップを見た者が皆口を揃えて言うように、やはり性一辺倒ではない魅力がこの世界にはある。
ひとりの女の子の人生が、そのたましいが、前置きや補足もなしにただ剥き出しで輝いている
ストリップにおける「性」というトピックは内在する要素のひとつに過ぎず、本質はおそらく別にある。わたしがいざショーを目の当たりにした際に感じたものは、ほのぐらいと思っていた風俗の中に核のように存在していたほのあかるさ、光である。服を脱ぎ肌を見せるというシンプルな行為の持つ迫力にただ圧倒され、涙腺が緩んだ。後に得た知識によると、ストリップを見て涙を流す人は決してめずらしくないのだという。
インターネットの普及により、不特定多数の人間に体を見せることも、また見ることも、呆気ないほどインスタントになってしまった。そんな時勢の中でなぜ、ときにはほんの数人の客の前ですら服を脱ぐのか、女神のようにほほえむのか。現在のわたしが咀嚼できた部分などごく一部にすぎないが、彼女たちは欲望の上澄みだけではなく、なによりも生き様を表明している。性を媒体として自分そのものを見せることで、生そのものが輝いている。
彼女たちのステージ作りは選曲も含め多くの場合がセルフプロデュースで、つまりそれぞれの性格やバッググラウンドによってアプローチが当然異なる。ちょっとした外食程度のお金を払って突然現れただけの他人であるわたしの目の前に、言葉の代わりとしての肌や踊りが、たどってきた生活の集約が、触れられるくらいの距離にある。ひとりの女の子の人生が、そのたましいが、前置きや補足もなしにただ剥き出しで輝いている。それが次々と差し出される。ありえないと思った。わたしは彼女たちを見ていると、子供のころの夢はなんだったのか、どんな日常に帰っていくのか、そこまで思考が飛躍して、できそこないの神様のような視点からやっぱり涙腺が熱くなる。
社会で生き抜いていく上で押し込めている人間くさい部分が当たり前に可視化されている世界
これまでの歴史と、これからの在り方。プロとしての踊りと、彼女たちのパーソナリティー。定番の言及である「エロなのか芸術なのか」というテーマ。そこに渦巻いている現象や感情をすべて同時に包み込んでいるような印象をストリップには受ける。社会で生き抜いていく上で押し込めている人間くさい部分が当たり前に可視化されているこの世界は、肯定感に満ちたスペースだ。
秘めていた思い、はめ殺しにしていた感情をふたたび取り出して扱わせたり、増幅させたりするダイレクトなパワーがここにはある。ストリップ劇場で踊ることも、また鑑賞に訪れることも、道徳に反する異端な行為ではなくむしろバランスをとる行為ではないだろうか。剥き出しの自分でいられる場所を担保し続けてきたこの文化を日本から絶やしてしまうことは明らかに損失だ。女性ひとりで訪れる客も急増しているといわれる昨今である。劇場に足を運ぶ人、また、ストリッパーという職業に興味を示す女性が増えることを切に願う。