ルールと言われて、イスラム教を信じる兄と妹の友人のことが頭に浮かんだ。食事や礼拝のルールが厳しいイスラム教に従う彼ら。大変でしょう、という同情のテンションで豚肉が食べられないことや断食があることをよく指摘されるのだそうだ。いやわたしも、最初彼らに出逢った時はそういう態度だったと思うが、話していると、大変でしょう、と言われるのは信仰を持たないわたしの方じゃないかと思ってくる。自身の行動規範が決まっていて、そのことが窮屈ではなく、とても幸せそうに見えたのだ。やった方が良いことと悪いことはクルアーンに全て完璧に書いてあり、それを守るか守らないかは自分次第。断食は実はみんなが楽しみにしている。日が沈んでから夜明けまで、集まってご飯を振るまうので毎晩がパーティーでとても楽しいし、そもそもお酒を飲みたいとか思わないらしく、もともと彼らはテンションが高く最初から本音で話すので、必要ないのかもしれない。もしお酒を飲みたければ飲めばいい。今全て守れなくても歳を経るごとに少しずつ守って徳を積んでいければ良いのだ、というのが彼らのスタンスだ。このコロナ騒ぎで、今まで水面下で育ってきた日本人の不安の連鎖が地上に現れてしまったようだ。やるべきことをしても、必要以上の不安がどんどん膨らんで、不安と不安が呼応して大きくなって、『千と千尋の神隠し』のカオナシが育っていくみたいだ。ムスリムの彼らに、おそれているものってある? と他の人が質問した時も、そうだよね、いったいわたしたちは何をおそれてパニックになっているのだろうと思った。自分の死だろうか。オリンピックができなくなることだろうか。仕事がなくなることだろうか。そもそもいろんな計画外のことが起こるという当たり前のことが、想定できなくなっているかもしれない。明日事故で死ぬかもしれないし、それまでちゃんと生きれば良いだけなのに。彼らがちょっと考えて答えてくれたのは、この世でこわいことはない。強いて言えば死んでから最後の審判で裁かれて地獄行きになることがこわいということだった。この世でのことは全て勉強で、死ぬまでにどれだけ自分を高め良い行いをしたかで、天国に行くか地獄に行くかが決まるらしい。死んだ後の心配をする感覚はわからなかったが、それによってこの世での心配をしなくなっているのは興味深かった。この世では良いことが起きればご褒美で、悪いことが起きれば教材で、神さまが指定した順番で起きる。生まれる日と死ぬ日も決まっているそうだ。起きることに全て意味を見出そうとする彼らから学べることはたくさんありそうだ。
決まった宗教を信仰していないわたしは、自分の信仰を自分で築いていかなければならない。とはいえ、この世に生を受けた瞬間からある宗教の中にいたような人も、置かれた環境に疑念を抱いたり、自身の信仰について再考したりして、結局はさまざまな経験の上に自分の信じるものを成り立たせていくものかもしれない。先の友人たちも日本で育ち、大人になってからイスラム教を選んだのだそうだ。改宗したりするかどうかはおいておいて、社会や政治に安心させてもらえる世の中でないという状況で、長く続いてきた世界中の宗教や信仰を紐解き、人生や死の捉え方を学ぶ試みが、これから増えていくような気がする。
人は、生まれもった親だけでなく、たくさんの先生から学ぶ。自分が生まれた文化の中から出て別の世界をいくつも持って育つことは何より面白い。だから生まれた国や町にずっといる必要はないし、逆も然り、興味を持って日本に来た人たちを育てる土壌になる余裕と、彼らから新しいことを学ぶ貪欲さを持っていたいと思う。