4月19日
「いや、ちょっと、料理はじめたから。手が離せなくなって」。
開口一番、言い訳をされる。
友人とのLINEのやりとりを見返してニヤついていたらちょうど本人から連絡がきて、えっ私もあなたのこと考えてたよ、と返信すると、電話がかかってきた。
最近この人、酔うとぎゅうとハグして来たり、友人の彼氏と私の家が同じ駅だからって「一緒に帰りたいけど今日は実家に帰らなきゃ」と手を繋いできたり、6年前には考えられないような素直さを身につけはじめたんだけど、少しだけこのあまのじゃくなところは残ってほしいな、なんて思う。ほんの少しだけでいいけど。
私が大変なことになっている部屋を片付けるあいだ、友人はツナをいちから作るらしい。カツオの切り身を買ってきたのをオリーブオイルで煮るという。そうそう、私たちそうやって最近、原点に返り始めているけど、それにしてもやることが突拍子もない。
片付けは、うまくいっているときはどうやってキープすればよいかわかるのに、一度秩序が崩壊すると、今までどうやって片付けていたのかまるでわからなくなる。通話をビデオ通話に変えて、部屋の様子をみてもらう。友人はカーラーで前髪を上げている。そんな漫画みたいな絵面あるかよと思ったけど、私は前髪をちょんまげ結びしていたので人のことは言えない。
とにかく部屋に散らばっているものをひとつずつ拾ってみて、これはなんなのかと確認し、別の場所に置いてみる。あまりにも無駄な動きに思える。けれど床に落ちているものをベッドの上に移動させ、種類ごとに分け、いらないものをゴミ袋に入れて、空いたスペースに掃除機をかけると、ただ移動させただけなのにとても片付いてみえる。ひとまずこのやり方で床を見えるようにさせよう。寝るときのことは、寝るときに考えよう。
私の長めのグチを聞きながら友人はあっという間にツナを作り、というよりちょっとした角煮のようなものに見えたけど、それから缶のシャンパンを開けだした。缶のシャンパン?
最近一人暮らしを始めた友人が唯一親からもらってきたものが、「MOET&CHANDON CHAMPAGNE」と書いてあるグラスだ。計り知れない。私が北海道から上京したとき実家からもらって来たのは丸太を切り落としたようなまな板だった。そんなの大きくていらないでしょと母はあきれていたけど、上京してから出会ったこの友人はそれをとってもおしゃれだと評価し、ガーリック・シュリンプなるものを作って盛り付けてくれた。要はニンニク味のエビなんだけど、それが乗った丸太のまな板は、実家の台所の奥でアリ除けの薬の匂いがしていた時と打ってかわってずいぶん誇らしげだった。
缶のシャンパンを例のグラスに注ぎ、画面のカメラに向かってコツンと当ててくる。ししとうのおひたしも作ったという。いつのまにそんなもの作っていたんだ。マグカップに入った水をコツンと当て返し、今日起きてから何も食べていないことに気づく。私もなんか食べなきゃな、とつぶやくと、食べな、家に何あるの、と突然母親のような物言いをされる。
おとつい気合いを入れた米がまだ炊飯器にある。スペアリブに合うようにガーリックライスを作ろうとして、調味料と米を二合入れたあと、家で育てている万能ねぎがあまりに伸びすぎて楽しくなってしまったのをブツブツとハサミで切って炊飯器に入れた、のが間違いだった。炊き上がって炊飯器を開けると白米と蒸されたねぎの匂いがたちこめた。あんなに新鮮な若葉色をしていたねぎが枯れ葉のようにしおれている。失敗を認めたくなかった。そぼろ肉や食べるラー油を混ぜてその場をしのいだ。1食食べ、2食食べたが、すべて食べきる気力は残っていなかった。炊いてから48時間が経っていた。今度ねぎ切るのが楽しくなったらジップロックに入れるといいよ、グラスを傾けながらにこりともせず言われる。
冷蔵庫を開けると、卵、賞味期限が昨日切れた豆腐、ナス5本があった。画面に収まるように見せつけると、なんでもできるじゃん、とのこと。豆腐はよく火を通してお味噌汁にして、卵はだし巻き卵にしなよ。私がナスの揚げ浸しって食べてみたい、どうやるの、ときくと丁寧に作りかたを教えてくれた。はいっ、じゃあナスを洗って~! と突然お料理教室の先生になった。「食器を洗っててえらいでしょ」と報告すると、うん、えらいえらい、と褒めてくれる先生は、白米に納豆を乗せて平らげていた。
言われるがまま、ナスに網目状に切れ込みを入れて縦に切る。なぜかぽろぽろと破片が落ちてしまい、それは切れ込みが深いんだよとか指摘されながら、ありったけの油とごま油を少し足したのをフライパンで熱する。ありったけと言ってもフライパンの底が隠れる程度。ワンルームの1口コンロでやるには揚げ焼きくらいがちょうどよいのだ。ナスが油を吸って、あったはずの油が全部なくなってしまってから、根気よく待っているとナスから水分が出てきて、また油が戻ってくる。焼き目がついたら皿に上げて、また油を足して、薄切りのナスを並べる。5本もあるので何度も繰り返した。しなしなになったナスをフライパンに戻して、だし汁をたっぷりと、めんつゆ、酒、みりんをまわしいれて、塩をすこし。煮立って来たのをスマホで見せる。だいたい煮えたら火止めていいよ。冷える間に味がしみこむから。はいわかりました。
だし巻きたまごのおいしい作り方は、めんつゆと水を入れること、ごま油で焼くこと。得意げに教えてくれたが、実は私に卵焼きを焼かせたら横に出るものはいない、というのは過言なのだけど。
中高の頃、母が毎朝お弁当を作ってくれていた。今考えると共働きで朝早くから夜遅くまで働く母のとんでもない労働だ。私は卵焼きの担当だった。
毎朝、もうフライパン熱してるよ、とおどしにも近い掛け声で起こされ、ふらふらとキッチンへ降りていくと、母が目にもとまらぬ速さで動いている。めがねやコンタクトをする余裕もなく、顔もあらわず、歯も磨かず、水を1杯飲むことも許される空気ではない。味噌汁を作り、卵焼きを作る間にその他のおかずを作る、3口コンロのルーティンは決まっているのだ。ほとんど目の開かない状態で、卵焼き用のフライパンに油を垂らす。昨日の汚れが持ち手に少し残っている。卵を冷蔵庫から取り出す。少しざらっとしていて、ひんやり冷えている。3つか4つボウルに割り、砂糖をスプーン1杯と塩をほんの少し、めんつゆを入れたり、牛乳やチーズを混ぜることもある。ねぎを入れるのはいやだ。当時からねぎとはうまく付き合えてこなかった。菜箸で切るように力いっぱい混ぜて溶き卵にする。カチャカチャカチャ、という音を聞きながら、頭の中はさっきまで見ていた夢のことを考えている。手だけが勝手に卵焼きを作っている。煙が出るほどフライパンが熱されたら、ボウルをかたむける。卵液がじゅう、と音をたてて、あっというまに空気の泡と一緒に固まる。手を伸ばすといつもの場所にフライ返しがある。ぺた、ぺた、ぺたと3回、こちら側にたたみ、フライ返しで少し浮かせた隙間にまたじゅうう、と流し入れる。これを3回繰り返し、魚の形をしたまな板に、ポンとひっくり返してのせたら完成。小さなナイフで5等分に切り分け、つやつやに光る断面をじっと見ていると、文字通り目が開いてくる。少しばかりの達成感に包まれながら、顔洗ってくるねと台所を離れる。
iPhoneを固定する三脚をシンクに置いて、そんな話をしながら友人に私の“卵焼きさばき”を見せつけようとする。しかし水を入れる工程はうちのレシピにはなかった。思っていたより卵がゆるくて固まらない。箸で持ち上げようとすると割れてしまいそうだ。あとは豆腐のお味噌汁を作ったら完成だなぁ、あ、乾燥わかめを入れようかな、乾燥わかめってさ、思った量の2倍ふえない?
「私、ラッキーって思っちゃう。ふえるのが嬉しいんだよね」。何を言い出したかと画面を見ると、友人が布団の中でとろんとした目をしている。豆腐が茹で上がるまで見ててくれるという。少しゆるくできあがった卵焼きを京都で買った小さなまな板にあげて、赤い片手鍋にお湯をわかす。木綿豆腐を手のひらの上にのせ、ざくざくと切る。
そこで通話アプリが落ちてしまって、気付くと充電は10%になっていた。ぐらぐら沸いた鍋に豆腐とわかめを入れ、充電しにベッドまで行く。1度だけ電話をかけなおし、おかげさまで献立が決まったよ、とお礼を言う。だし巻き卵の感想きかせてね、そういって友達はあきらかに早すぎる睡眠に向かっていったけど、夕食が終わった今言えることがあるとすれば、これからだし巻き卵を作るとき、必ず水を入れようと思います。
「違う場所の同じ日の日記」
この日々においてひとりひとりが何を感じ、どんな行動を起こしたのかという個人史の記録。それはきっと、未来の誰かを助けることになります。
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