4月10日
朝起きて証券アプリを開き株式市場を眺めてみる。3月19日、KOSPI(韓国総合株価指数)が1400台に大きく暴落した韓国株式市場は恐怖に怯えたが、再びぐんぐん成長し4月中旬現在、1800台をキープしているところだ。IMF危機の際、金(Gold)を集める運動が起きたように、コロナ時代の蟻投資家(個人投資家のことを例えた表現)たちが懸命に国内の株を買い集め、下落するKOSPIの株価を守り抜いているそうだ。これを株式市場では「東学蟻運動(1894年に起きた「東学農民運動」に例えている)」と呼んでいる。しかしこれが本当に株価を守るための動きなのか、投資ではなく投機のためなのかは把握することができない。
価格が瞬く間に決まる株式市場を眺めていると、私が今までやってきて今もやっている仕事の価値についてじっくり考えさせられる。形のない「物語」を作る私の仕事のことである。マスクの買いだめ、トイレットペーパーの買いだめ、米の買いだめ、さらには銃の買いだめまで続く、この恐怖にかられた世界の中で「物語」はどのように生き残れるだろうか。
家には少し前に注文した10キロの米1袋、箱ティッシュ24個、それから引っ越し祝いにもらったトイレットペーパー30ロールがある。マスクは日本へ出張したときに買ってきたものが残っているのでまだ注文していない。このように明確に数を数えることができず、明確な価格がついていないものたちは現在どこでどのように生きているだろうか。この質問はつまり「私はどのように生きているのか」と同じ意味でもあるようだ。
私はどのように生きているのか。
このように書いてみると、ますます分からない。でもどうせ自ら質問を投げたついでに、一度自己点検をしてみなくては。まず、発売予定であるエッセイ集の原稿を年始に書き上げ、本の間に挿入する漫画の原稿を描いている。3月末までに完成させるはずだった仕事なのに既に4月中旬に差し掛かっていて、原稿の進行率は30%にも達していない。3月から6月までに予定されていたライブやイベントが全て延期・中止となったおかげで時間は充分にあったが、時間があるからといって仕事がはかどるわけではないということを、身をもって体験しているところだ。毎日眠りにつく前、得体の知れない不安感に取りつかれ「これは一体何の不安感だろう」と呟くも、呟いた「これ」が何を意味するのかも分からない。友達に聞いてみたところ「これ=社会的不安感」だそうで、自分も最近同じ気持ちになると言った。私たちは社会的距離を守るために、近々オンライン飲み会をする約束をした(数人で一緒にビデオ通話をしながらお酒を飲む集まりのことである)。
最近あった最も大きな事件は保険会社の面接に合格したことだ。周りの人にこのことを知らせるとあまりに驚くので、その反応を見るだけでも一日退屈しない程だ。
私が保険会社に入った理由はそれほどたいしたことではない。コロナのせいでほとんどのライブが中止になり時間ができたし、お金がなくなったし、それでお金の生態系を知りたくなった。ひとりで勉強することもできるだろうけれど、お金に関連する職場で身をもって学び、体験してみたいという欲求があった。今まで私が経済に関することで体験(?)してきたことは
1)賃貸アパートの申請:落ちた。
2)大黒柱保証金資金ローン:成功した。
(韓国政府が施行する家賃の保証金ローン)
3)株式:成功したのかまだよくわからない。
4)預金、積立金等がある。
これに加え金融の重要な要素の一つである保険にも興味があったし、今年三大疾患(癌、心臓、脳)保険に加入し、設計する過程を見ていたら自分もやってみたくなった。ちょうど時間の余裕もできたところなので、私が加入した保険会社を訪ね、面接を受け合格した。4月の1ヶ月間、設計士資格試験の勉強をして、試験を受けたらすぐに5月になりそうだ。いつも春はライブとイベントで慌ただしく過ごすのに、金融の勉強ばかりしているなんて、この状況が自分でも不思議で面白い。新しい仕事をすると新しい言葉を身に付けることになるし、新しい言葉を身に付けると新しい力がつく。エイリアン語のように感じられる金融専門用語も、繰り返し見聞きすることで少しずつ使いこなせるようになってきた。私の保険はもちろん、周りの友人たちが加入してそのままにしてある保険証券も少しは分析できるようになった。国内外の文学がぎっしり詰まった本棚に、初めて経済書籍を並べるスペースも作った。市場に出ている商品で保険を設計する「保険設計士」という職業もあるが、保険商品そのものを開発する「保険計理士」という職業があることも知った。私は一体どれほど多くのことを知らずに生きてきたのだろう。“私はなぜ知っているのですか”(私のセカンドアルバム収録曲である)という歌を作り歌っていたことが恥ずかしいくらいだ。
面接で会った会社の本部長は知らないことはいくらでも質問して良いと言いながら、いざ私が質問を浴びせるとこんな忠告をした。
「すべての仕事の本質を知ろうとするな。人々が信じるものを信じ、知らないことはやり過ごし、穏やかに暮らし、幸せを感じろ。」
お金とは何か、価値とは何か、 質問しながらここまで来た私がくたびれて見えたのだろうか。しかし私は質問することでくたびれることなどなく、いつまでも続けられそうだ(でもそうやって質問を続けていたら本部長は私を解雇するだろうか?)。質問することだけは止めようとしたことが全くない。止められることなのかも分からない。友達が言っていた社会的不安感で眠れない夜にも質問は絶えない。毎朝、火柱と水柱(株価上昇グラフは赤色で下降グラフは青色である)が交互に立ち上がる株式市場を見ていてもそうだ。
今日のお昼、2月に日本で出会い友達になったタルホ(9歳)へ暗号の手紙を送ろうとマスクをつけて郵便局へ行ってきた。韓国国内でコロナウイルス確定診断者が30名にも満たなかった2月初旬、西日本ツアーがあり、タルホはそのときに知り合った友達だ。神戸、今治、須崎、広島、岡山の5ヶ所で5回ライブをしたが、今治のライブ企画者の息子タルホと、二日間なにかにつけ言葉を交わしているうちに仲良くなった。タルホは私に自分が作った仮想国家「ミンノシマ」とミンノシマの人々が使う「ミンノシマ語」を教えてくれた。私はタルホが誰にも教えたことのないミンノシマ語のアルファベットが書かれた紙をプレゼントされ(紙が入ったファイルには「機密」と書かれている)、そのとき私たちだけが知るその言葉で手紙のやりとりを約束した。
そして3月中旬、日本の切手がたくさん貼ってあるエアメールが作業室に届いた。封筒にはタルホの仮想国家ミンノシマ国旗が描かれていた。彼からもらったミンノシマ語アルファベットがないとその手紙を読めないのに、もしかしてどこかになくしてしまったのではとあたふた家中くまなく探したところ、ギターケースの中にその秘密文書があった。3つの文章で終わる短い手紙だったけれど、解読するのにかなり長い時間がかかった。やはりかなり長い時間をかけ6つの文章で返事を書き、それを今日送ろうとしたのであった。しかし郵便局に着いてみたら日本宛ての国際郵便が引受停止になっていて、EMSで送ろうとしても1ヶ月以上かかると言われた。私たちだけが使える新しい言葉で楽しく会話しようと弾んでいた気持ちに、冷たい境界線がすーっと引かれるようだった。新しいことを知り、新しい言葉を学んでも、それを一緒に分かち合える人がいなければ、どれだけ寂しく辛いことであるかを実感した。保険のように前はあまり知らなかったけれど今では少しずつ知っていきつつ、保険業界の人々と会話できるようになる経験も新しいことだったけれど、私とタルホの暗号のように、世界でたった2人しか知らないことを分かち合えない経験はあまりに新しく衝撃だった。
今日みたいな一瞬の遮断でさえ戸惑う私は、今までどれだけ多くのものたちと繋がって生きていたのだろうか。その数多くの繋がりがあったからこそ、完全に孤立する経験をせずに今まで生きることができたのだろう。そう考えるとこの物語がどこかへ掲載され、誰かが読むことができる繋がりもまた、とてもありがたく思う。今、このような仕事をすることができて良かった。
「違う場所の同じ日の日記」
この日々においてひとりひとりが何を感じ、どんな行動を起こしたのかという個人史の記録。それはきっと、未来の誰かを助けることになります。
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