4月10日金曜日。
夫もわしも今頃保育園に通っているはずだった2歳の息子も、みんな在宅に切り替えて2週間以上経った。こんなときだからと家でしかできないことを、こんなときだからこそ許し合おうと、ピンチをチャンスに、最初は割と楽しんで始まったおうち時間だったが、滅多にできない口内炎がもう2つも出来た。
大人たちは思うように時間が取れず、元気がありすぎる息子はいきつけの公園に毎日行けず、それぞれが疲れていた。今年の頭はメルボルンに滞在していたなんてことがもう信じられないくらい、世界中が分断されてしまった。オーストラリア人の友人と定期的に連絡を取り合っては嘆いている。嘆いているんだけど、そのまま気がついたらいつのまにかテラスハウスの話になったりしている。このささやかのやりとりにさえありがたみを感じるなんて、我々は一体どんな試練を与えられていまこの世に存在しているんだろう、と大げさなことまで考えてしまう。もうここまできたら大げさでもないのかもしれない。我々は何かに試されているとしか思えない。
SNSを開けば親交のあるお店が次々にアクションを起こしていた。こんなことになるまで意識なんてしたことがなかったけど、あの人のお店もこの人のお店も、全部みんなが“じぶんで”やってるんだ。やまほど顔が思い浮かぶ。自分自身も含め、それぞれが試行錯誤してなんとか生き抜こうとしている。仲間に限らず、この世には自分の想像だけでは追いつけないほどのいろんな立場の人がいることを知り、また気が重くなる。一旦SNS閉じるか。
物事は常に表裏一体で、100パーセントうまくいくことなんて絶対にないとはわかっているのだけど、どうか全員が何にもおびやかされることなく、無事でいてほしいという平凡な言葉しか頭に思い浮かばない。
それにしてもこれだけソーシャルネットワークが発達しようが、結局ひとはひとを求めてる。さっき自宅マンションに帰宅した時に、警備員の人が隣で何か作業していた。目を合わせてもなかったのに、ちゃんと気配と温度を感じた。こういうの久しぶりだなと思った。
「違う場所の同じ日の日記」
この日々においてひとりひとりが何を感じ、どんな行動を起こしたのかという個人史の記録。それはきっと、未来の誰かを助けることになります。
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