4月4日 はれ
今日は夫の誕生日だ。一緒に過ごすのは、もう9回目になる。9度目の4月4日。毎年このシーズンはプロ野球の開幕戦があって東京にいた頃はふたり、よく横浜スタジアムに行ったものだった。スタジアムのなまぬるい、湿気や熱気のまじった空気。桜はもうわりと散っている。プラスチックカップで飲む泡の多いビール。そんなことを思い出す。
しかしここは東京ではなく、今年はプロ野球も始まらない。そこで、というわけではないが9年目にしてはじめてちょっとしたサプライズをすることにした。
誕生日といえば、バースデーケーキ。昨日ふたりでささやかに自宅でお祝いしたときも「ケーキないのー?」なんて夫に聞かれてないよ~と返したけれど、ちゃんと用意してある。前日の昼間にイチゴや生クリームを買ってきて、作ったのだ。作ったと言っても、スポンジケーキも市販のもの。イチゴを切って挟んでクリームを塗っただけだけれど、スポンジに砂糖水をたっぷり塗って、ちょっとひと手間かけた。
小学生のころ、通っていたピアノ教室の帰りのこと。母の買い物を待つ間、デパートの地下のケーキ屋でガラス越しにケーキ職人がおおきなボウルからクリームを掬って、すっすと台を回しながらケーキに塗りつけていくのを、見るのが好きだった。簡単そうに見える。いくらじっと見ていても、パティシエと目が合うことはなかった。パティシエなんて言葉も、そのときは知らなかった。今こそ思い出すのだ、パティシエのあの手つきを。こんなにももくもくと、頭のなかにはその姿が浮かぶのに、しかしケーキはなんだかいびつ。いびつなバースデーケーキが完成した。夫が冷蔵庫を開けても気づかないようにこんにゃくや味噌などで隠して、しまっておく。
そんな昨日。そして誕生日当日の今日は友人ら数人で近くの公園を散歩しながらお花見をして、そのあと友人宅でごはんを食べる予定だ。ケーキを外に持ち出さないといけないが、ケーキの箱は結構大きい。たっぷりサイズのトートバッグに入れる必要があるけれど、こんな大きなバッグを持ち出してきたら夫に「何持ってくの?」と聞かれそうだ。出かける直前になって、頭が痛いとかなんとかモニョモニョ言って、夫にアパート下の自販機にマッチを買いに行ってもらう。マッチはわたしの特効薬。それを夫は知っている。そしてその隙に、ケーキの箱をバッグにしまい、上にそこにあったアルフォートの大袋を乗せ、また上着を被せ、何事もなかったように待機していた。夫は荷物のことにはふれず、そうしてわたしはことなきを得た。ほ。
車で、友人宅へ行く。この地に越してきたばかりの、東京の友人。東京の知り合いがこんな田舎にやってくるなんて不思議だ。荷ほどきをすこし手伝って、一緒に公園に行く。ほんとうは、ここでレジャーシートを広げてお花見をするつもりだったけれど、HPで確認すると宴会は禁止になったようで、散歩にとどめることになったのだった。待ち合わせていた友人夫妻2人と合流して、桜を見ながら歩く。あたたかいから、歩いているだけで気持ちいい。久しぶりに外に出て人と会って、話している。どこまで自粛すればいいのだろう、と思いつつじゃあ仕事はどうなんだろう。毎日数十人、多ければ100人近くの生徒に会う。ものすごい数だ。それは大丈夫なのか、ここは東京ではないけれど。
みんなで写真を撮って、友人夫婦宅へ移動。ピザをとった。楽しく話しながら、わたしはずっとケーキのことが気になっている。もちろん、友人たちにもこの計画は伝えてあって、着いてすぐに連携プレーで冷蔵庫にしまってもらっていた。
夫がお手洗いに立つたび、残ったわれわれで、計画をすこしずつ進めていく。二度目のときにわたしは3人にクラッカーを手渡した。その後気づけば友人の旦那さんのクラッカーが床に落ちている。ポケットにしまっていたはずのそれがいつのまにかおむすびころりんしたのか。焦ったが気づいた友人がサッと拾い上げてくれてなんとかなった。ほ。ピザも食べ終えて、気づけばいい時間である。次、夫がトイレに行ったら計画はついに実行される。
早く夫の膀胱に尿が溜まれ~そしてすかさずトイレに行け~というわたしの念がやっと通じてフラーと夫が立ち上がる。3人で目配せをして、われわれは音もなくそれぞれの持ち場についた。わたしは冷蔵庫から出してもらったケーキを受け取って、リビングの奥の部屋に隠れる。マッチを擦って、ケーキの上の3と1のろうそくに火をつける。結婚したばかりのころ、行った城崎温泉の旅館のマッチ。数年後、こんなところで使うことになるんだな。焦りながらぼんやり思う。夫が帰ってきて、みんながクラッカーを鳴らす。まばらに鳴り終わるクラッカー。夫がえー? とか言うのがきこえる。電気が消えて、わたしがケーキを持ってゆらゆらと登場。ハッピバースデーの歌を歌った。夫がろうそくを吹き消す。拍手。電気をつけると、夫はへらへらしたあいまいな笑顔。みんなつられてそんな感じで笑っている。わたしはどんな顔をしていただろう。全然気づかなかったー、えー、えー? と言いながらケーキをすこしずつ食べる夫を見て、わたしはとてもうれしかった。
誕生会行って誕生日のひとにさわってきたと まるで風だね/雪舟えま
「違う場所の同じ日の日記」
この日々においてひとりひとりが何を感じ、どんな行動を起こしたのかという個人史の記録。それはきっと、未来の誰かを助けることになります。
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