臨港パーク(神奈川県横浜市):みなとみらいの都市と海の間にゆるやかに広がる公園、そのそばにある世界でいちばん気に入っている空き地
みなとみらい線の新高島駅かみなとみらい駅から、海の方へ進んだ場所にわたしのお気に入り「臨港パーク」はあります。海沿いに芝生のひらけた土地が続いていて、どこからどこが公園なのか、みなとみらいの街や人々との間にゆるやかに広がる公園です。
公園の南側にある池の水は海水で、海と池の境界をまたぐように、アーチ状の石橋が掛かっていて、その橋の下のあたりでは、おじいさんや親子づれがなにかを真剣に釣っていたりします。公園沿いの海面は高くて、近くの山下公園の辺りと比べるとかなり海との距離が近いような気持ちになります。潮が満ちているときなんかは、かがんで手を伸ばせば海水に指先が触れるくらいです。わたしの足もとから、ずっと先まで海が続いていって、水平線が遠くの工業地帯を繋いでいる、そういうことをぼんやり思うだけで気持ちが解放されていくような気がします。護岸の前は、ゆるやかで幅の広い階段が2、3段続いていて、そこに腰を下ろして、海から来る風に吹かれながら絶え間なくゆらめいている波を見ているとあっという間に時間が経ってしまいます。水がぶつかって出来る小さい三角形。その三角形と三角形がまたぶつかる。崩れて、消えて、また生まれてくる。最初うるさく思える波や海風の音も、潮の匂いがじんわり皮膚に染み込むうちにわたし自身の音みたいに思えてくるのが不思議です。海水浴場でふれる海とも、岩場で打ちつけてくる海とも、深く潜っているときとも違う距離感で海と同期する。同じように海を見ている人たちの気配を感じつつも、とくに干渉せず、それぞれの時間が海に向かって広がっていく場所です。
護岸から街へ上がっていく緩やかな勾配の芝生広場では、「ふれあいショップみなと」という売店がポツンとあって、都市の海の家でテイクアウトするアイスコーヒーは特別おいしいわけではないけれど、ここでゆっくりするのならちょうどよくておすすめです。
海と向き合って疲れたり石の階段にお尻が痛くなってきたら、みなとみらいの方へふらふら歩いていって、映画館や本屋さんに寄ったり、お金があるときは「万葉の湯」で体をお湯に浸すのもよいと思います。
もう1箇所、紹介させて欲しい場所があるのですが、よかったら聞いてください。
「臨港パーク」から海に背を向けてパシフィコ横浜を通り抜け、すずかけ通りをまっすぐ進んでいくと、世界でいちばん気に入っている空き地があります。大企業の高層ビルやタワーマンションに囲まれた再開発の中心に、ぽっかりと穴があいているような異様な場所です。夏は雑草がフェンスのなかでごうごうと繁殖し、雪が降れば枯れた植物の上に積もるふかふかの雪が長いこと光っています。ちょうどこの空き地が見渡せる歩道橋がすずかけ通りにかかっているので、どうかその上から眺めてみてください。
「みなとみらい」と呼ばれるエリアは、平坦に続く土地に、タイルの敷き詰められた歩道、ガラス張りの高層ビルが立ちならび、電線はもちろんなく、あらゆるノイズは隠され、あるいは排され、清潔、整然としていて、わたしはそういうみなとみらいが好きです。でも、規則正しく並ぶ歩道のタイルを数えながら心を整理して歩きながらも、思い出してたまらなく会いに行きたくなるのは、その隣で常にごうごうと広がりうなっている海や、隙間で密かに繁殖し続ける植物たちです。足元でいまは確かにこの体を支えている地面をバリバリと剥がしていけば、そこにはわたしの知らない人々がここに住んでいた記憶や歴史、この土地を覆ってきた植物や、海や、岩の呼吸が眠っている確実な気配が張り詰めていることに気付く。
公園の好きな場所に腰掛けて、地図アプリで自分が座っている現在地の1970年代くらいまでの地図や航空写真を見てみると、ここが海だったこともよく分かります。大きな力でぐいぐいと動いているこの土地の歴史の過程の上で、たまたま得た安全さに腰掛けて考え事をする贅沢になんの意味があるのか、不安な気持ちを片隅に置きながら、それでも考えることを止めてはいけないと、波のそれぞれの形と潮の流れの副産物に五感を満たされながら、いつも静かに思います。臨港パークによかったら足を運んでみてください。