はじめまして、文月悠光といいます。詩人という肩書きの通り、詩を書く者です。
初対面の方に「詩を書いています」と話すと、「シ?」と怪訝な顔をされたり、「詩ってよくわからないんですよね」「難しいんですよね」と困った顔をされることが多くて、よく寂しい思いをする。でも皆がこの詩を読めば、私がどんな距離感で詩に接しているか、わかってもらえるような気がする。
詩の好きな人もいる
そういう人もいる
つまり、みんなではない
みんなの中の大多数ではなく、むしろ少数派
むりやりそれを押しつける学校や
それを書くご当人は勘定に入れなければ
そういう人はたぶん、千人に二人くらい
好きといっても──
人はヌードル・スープも好きだし
お世辞や空色も好きだし
古いスカーフも好きだし
我を張ることも好きだし
犬をなでることも好きだ
詩が好きといっても──
詩とはいったい何だろう
その問いに対して出されてきた
答えはもう一つや二つではない
でもわたしは分からないし、分からないということにつかまっている
分からないということが命綱であるかのように
ヴィスワヴァ・シンボルスカ著、沼野充義訳『終わりと始まり』(未知谷 1997年:16)
詩人だからといって、詩が飛びぬけて好きかと言われると、ちょっと悩む。詩が好きと言っても、私は猫も好きだし、炊き立てのご飯も好きだし、香水売り場の前を歩くのも好きだ。人間としては当たり前の、(けれど詩人としてはちょっと意外な部分を)飾らずに語るシンボルスカの姿勢に共感する。
<分からないということが命綱>とはどういうことだろう? 詩に対して「分からない」と言い切る作者の態度には、自信のなさよりも、むしろ堂々としたたくましさを感じる。人はたくさんの「好きなもの」を持つ。その一つに詩という表現があってもいいはずなのだ。
詩集『終わりと始まり』に収録されている、「ノーベル賞記念講演」の中で、シンボルスカは「わたしは知らない」という言葉を、自分は大事なものとして捉えている、と述べた。それは一見小さな言葉だが「強力な翼を持っています」という。
偉大な発見をした科学者も皆「わたしは知らない」という姿勢から出発した。詩人もまた、「絶えず自分に対して『わたしは知らない』と繰り返していかねばなりません」という。
「私はわからない」は強力な翼。その一節から思い起こしたのが、今年亡くなられた大岡信さんの詩「炎のうた」であった。
炎のうた
わたしに触れると
ひとは恐怖の叫びをあげる
でもわたしは知らない
自分が熱いのか冷たいのかを
わたしは片時も同じ位置にとどまらず
一瞬前のわたしはもう存在しないからだ
わたしは燃えることによってつねに立ち去る
わたしは闇と敵対するが
わたしが帰っていくところは
闇のなかにしかない
人間がわたしを恐れるのは
わたしがわたしの知らない理由によって
木や紙やひとの肉体に好んで近づき
身をすりよせて愛撫し呑みつくし
わたし自身もまた
それらの灰の上で亡びさる
無欲さに徹しているからだ
わたしに触れたひとがあげる叫びは
わたしが人間にいだいている友情が
いかに彼らの驚きのまとであるかを
教えてくれる
大岡信『自選 大岡信詩集』(岩波文庫:118)
炎の特徴を、単に外側からなぞっている言葉ではない。<でもわたしは知らない/自分が熱いのか冷たいのかを/わたしは片時も同じ位置にとどまらず/一瞬前のわたしはもう存在しないからだ>という部分で、作者は火の在りように重ねて、明らかに人間(自分自身)を語っている。
それゆえ「わたしは知らない」という言葉は重い。私は私を「知らない」からこそ、自分の輪郭に触れてくれる他者の存在がかけがえのない意味を持つ。
詩のことを「知らない」「わからない」と口にする人たちは多い。自分自身に関することだって、私たちは毎日「わからない」ことだらけ。
けれどそれこそが、他ならぬ「わたし」として生きることの出発点なのだと、私は勇気を振り絞って宣言したい。