「私たちの孤独に」
そう名付けた展示が始まって二日目。
SUNNY BOY BOOKSの店内に座って、似顔絵を描きながら過ごすゆっくりとした午後だった。
お客さんに振る舞うために「温かいコーヒーを淹れてくるから」と店を出た店主の高橋さんが戻ってきて、シルバーの水筒から注がれたのはまさかのコンソメスープ。「コーヒーがなかった」と言いながら、黄金色の透明なスープから湯気が上がった。予想もしていなかった香りにお腹が空いてしまう。お客さんが来るたび少し笑いながらコンソメスープを飲んだ。
店内のBGMは私が持ってきたCDが順に流れていた。
松田聖子、カーペンターズ、ユーミン、The Shacks。
「“私の孤独”じゃなくて、“私たちの孤独”なんだね。」
展示のタイトルを見ながら画家のKさんがそう言った。
ユーミンの“ランチタイムが終わる頃”が流れている時だった。
「そうなんです。私じゃなくて、私たち。
最近よく同年代の友達と話すときに感じるんです。それぞれの孤独みたいなもの。
20代後半だからなのかもしれないんですけど。この先のこととか、人生とか、誰かと居ても孤独ってことがあるじゃないですか。そういう、疎外感みたいなもの。そういう話ばかりしているから。」
もっと上手く、もっと丁寧にそのことを伝えたかったけれど、その時に私の口から出て来た言葉はとても足りないものだった。本当はもっと「孤独」ということについて話せることがあったのにと、思った。
それって女性特有の感覚なのかもしれないね、という話になったりもして。
20時過ぎにお店を出て、喫茶店に寄ろうか迷いつつも真っ直ぐに帰った。
11月も終わるころ。
木曜日の夜、私たちは喫茶店の隅で。
ココアとミルクティー、私のクロックムッシュが運ばれてくるのを待ちながら話していた。
「ねえ、あれからどうなった?」
冬が来る前に聞いていた友達の話の続きを聞いた。
しばらくして私たちの目の前にココアとロイヤルミルクティーとクロックムッシュが順に運ばれてきて、たちまちテーブルの隙間は無くなっていった。相反して、話をする私たちの心の隙間みたいなものはどんどんと広がっていくようだなと思った。
あまり明るくなれないような会話が続いて。
「結婚」という言葉がいつもどこかで囁かれる年齢になった。
私たちはそんなふうにして心の居場所をつくり合うみたいに「まだ大丈夫だよ」と言う。
友達として「そのままで大丈夫だよ」と言うことは、慰め合うことではないと私は思う。
ただ存在を認め合うみたいなものであって。
「まだ」とか「もう」とか、なにかの基準の上に成り立っている言葉から離れたところで生きていられたらいいのに。
きっとこのままではいられないけれど、でも、意に反して変わることなんてできなくて。
そのなかで、もがいているようだ。
私たちは。
「私たちの孤独に、寄り添うものってなんだろう。」
私はクロックムッシュの付け合わせのレタスを手でちぎって、味のしないレタスを噛み締めながらそういうことを考えていた。そこに女性と呼べる人は私たちの他に居なかった。薄暗いランプの下、そこに。
その夜に展示用の冊子の最後のページを書いた。
「孤独ってきっとそれぞれが抱えていて、それを見せ合う必要もその重みを比べ合う必要もなくて。
誰かと居ることで埋まることもあれば埋まらないこともある。
消してしまおうと思っても消えていってはくれない。
でも寄り添うことはいくらだってできるのだと思った。
分かり合わなくても、寄り添うことだったらいくらでも。
それでも分かり合える何かを探して、なにかに笑い合ったり、否定したりもしながら。
私が抱える孤独も、あの人が抱える孤独も、あの子が抱えている孤独も、誰一人きっと分かり合うことなんてできない。
それでも私たちは、その孤独を抱えたまま寄り添うことはいくらだってできると思う。
一緒に居られることが本当はとても尊くて奇跡みたいなことだと思うから。友達でも恋人でも家族でも、いまここに、おんなじ時間の中にいるだけで本当は奇跡みたいなことだと思う。
消えていかない孤独を抱えながら私も、時に誰の孤独に寄り添いながら。」
それを今日、日曜の夜に一人読み返して。
年が明ける前の自分の言葉が他人の言葉みたいにも思えた。
次の週末、東京へ遊びに来ると言う友人に「どこ行きたい?」とメールを送りながら。
きっと、私たちはビールでも飲みながらこういう話をするんだろうなと思った。
きっと、東京タワーの明かりなんかが見える場所で夜通しそういう話をする。
きっと、また「大丈夫」って言い合うのだろうと思った。
笑いながらも、私たちは。