「そういえばさ、ずっとエヒラに言おうと思っていたんだけど、あそこの赤いドアの家の前のアロエすごくない?」
「でもこの冬で枯れちゃいましたよね? あのアロエも」
「え? なんで?」
「アロエは寒さに弱いから。雪が積もるとダメになっちゃうんです」
「そういえば隣の花壇にあったあの大きいアロエもなくなってたね。なんでないんだろうって思ってた」
「そうなんですよ、あのアロエ格好良かったのに。この冬の寒さで東京のアロエ、全部いなくなっちゃたんです。だから歩きながら毎日悲しくて。ああ、アロエもいないし、残っていても全部枯れているから可哀想で」
「もうそのままダメになるの?」
「そうかもしれないです。でもアロエってすごく強いから、もしかしたらまた芽が出るかも。根っこが生きていたなら」
日曜日の午後のアロエの話。
本当にそうだった。
この冬の寒さで東京のアロエは、ほとんどいなくなってしまった。
3年前の春、私は高架下の花壇のアロエに目を奪われた。
誰の目にも触れる場所にありながらも、誰も気に留めていない。空き缶やガラス瓶の置き場にされてしまうような場所で。それでもアロエはそこで強く生きていた。生きていることを全く恥じていないし、むしろ光すら放って見えて私は、そのアロエの写真を撮った。
それを機に街中のアロエが目に飛び込んでくるようになり、それから他人のアロエを眺める癖がついた。アロエを目の前にすると「生きること」を考える。強く、ここで生きていかなくちゃと思い直す。
今ではそれが当たり前になって、携帯の「他人のアロエフォルダ」と名付けたアルバムにはアロエの写真が200枚を超えた。周りの人たちがアロエの写真を送ってくれたりもする。あそこにいいアロエがあったよ、という情報など。アロエを見たら私を思い出すと言われたりもする。
でもこの冬の寒さでその東京のアロエは、ほとんどいなくなってしまった。
東京に雪が積もったのはほんの数日の出来事だったけれど、雪が溶けたころには青い体がうなだれて、みずみずしく水を蓄えた体も細くなっていって、どんどんアロエは赤くなっていった。
そしてみんないなくなってしまった。
見慣れた道端、あの他人の庭先や玄関、ビルの横の青い植木鉢の中、あのアロエもどのアロエも。
今日、話していた「あの赤いドアの家の前のアロエ」もやはり茶色く姿を変えていた。
カレンダーは今日で4月。
この冬がとても寒かったことなんて忘れてしまうくらいに暖かくなった。
そして東京の桜が咲いた。
アスファルトの上に白い斑点。
アロエがいなくなった春、桜すらもう散り始めて、それでもなぜか気持ちは心地よく季節に馴染んでいく。
今日もアロエの話をした後に「でも外が暖かいだけでなんだか幸せだなって思います」と言ったら、「なにそれ超ハッピーな人じゃん」と笑われた。「そうですね、もしかしたら私ものすごくハッピーなのかもしれません。財布には『福』って書いてあるし、携帯には『喜』シールと大吉のおみくじ挟んであるし」と笑った。(がま口の財布には「福」と書いてあり、携帯にはキラキラの「喜」の文字とシール、ピザ屋に置いてあった100円を入れるとおみくじが出てくる機械で当たった大吉のおみくじを携帯ケースに挟み込んでいる。みんなは私のそれを見て笑う。やめたほうがいいよと言う)
「幸せな話なんてないって言うけど、なんか十分幸せそうじゃん」そう言って笑われたり笑ったりした。
散っていく桜を横目に見ながら、変わっていくことをすんなりと楽しめる自分でありたいなと思った。
2日前の夜に「4月の半ばに開催予定だったお花見の名目は『ピクニック』に変更になりました」という連絡がきたところだった。その連絡に笑った。潔くピクニックへと変わったらしい。
「なにかピクニックっぽいラインナップの物を持っていきます」と返信。
「お花見」が潔く「ピクニック」になっていったみたいに、そんなふうに形を変えながら楽しんでいくほうがずっといいなと思った。
散っていったことをさみしく思うよりも、そのあとに薄い緑色の葉っぱが木々を覆っていく姿を楽しみにしていたいし、いなくなったアロエたちを思い返すよりも、次に出てくるであろう新しい芽を楽しみにしていたい。
きっと夏には、あの強い力で息を吹き返す気がする。
伸びてきた髪の毛を三つ編みでまとめるのが日課になったここ最近の自分。
マンションだけ増える街並み。あの花壇はパンジーに植え替えられて、私のアパートの外壁の扉のドアがくすんだブルーから真っ赤になった。友達が遠い街へ引っ越していった。変わっていった人を、私が追いかけたり責めたりできないこと。
でもそんなことだって毎日が過ぎていけば馴染んでいく。