知らない私学のパンフレットがテーブルの上に投げ出されていたのは、去年の梅雨の時期だった。宮田が塾から帰宅すると、ハウスキーパーは帰った後で、いつもより家の中は整然としていた。
麦茶をグラスに注ぎながら、宮田はちら、とそれを見た。私立築山学園中学高等学校、と書かれた冊子は、どこか噓くさく安っぽい。家にある、桜蔭や雙葉や女子学院の学校案内とは趣が違う。
なんだろう、と思いながらも、何か嫌な予感がして、宮田はそれに触るのをやめた。触ってしまえば、自分がそれと関連づけられてしまいそうで嫌だった。
近くのダストボックスへ目を向けると、折り曲げられた角2の封筒が逆さまに突き出ていた。ハウスキーパーが帰った後に、父が一度家に寄ったのだろうか。
宮田は顔を傾け、その封筒に印刷されている学校の所在地を読もうとした。
北海道?
どく、と心音が大きくなる。
きっと仕事の資料に違いない、と宮田は自分に言い聞かせた。父の専門は債務整理だが、それ以外を請け負うこともある。私立中学のパンフレットが何の資料になるのかはわからなかったが、そういうことだってあるのだろう。事務所に届くはずの書類が自宅に届くことだって、珍しいことではない。
では何故、その資料はむき出しでテーブルの上に置かれているのか。娘の目につくように。
嫌な予感を押し流すように、宮田はグラスを一気に傾けた。
ダイニングからは、防音室がよく見えた。リビングの一角を透明な防音ガラスで仕切り、防音室が作られたのは宮田が生まれるより前のことだ。ピアノ教師だった母は、自宅で生徒を取っていた。
グランドピアノは当時と変わらず艶めいている。
「それ見たか?」
玄関の開く気配がしてまもなく、父の修司がリビングに顔を出した。挨拶もなく、忙しない手でソファ横の棚を手探っている。
「おまえ、鍵見なかった? こんくらいの」
どこやったんだっけな、と修司が荒っぽく呟いた。その髭を伸ばした大男は、いるだけで場を威圧する。一度帰宅したからなのか、スラックスの上はポロシャツだった。
「事務所かなあ、めんどくせえなあ」
「……これ、何?」
「鍵だよ。預かってるロッカーの鍵」
宮田がパンフレットを掲げると、ああ、と修司は素っ気なく言った。
「そこ、来年、北海道に出来るんだってさ。中高一貫で、寮もあるって。最近たまたま人に聞いてさ。いいだろ」
「何が?」
「何がって、何」
「まさか私の話じゃないでしょ?」
「ほかに誰がいるんだよ」
おまえそこ入んなさいよ、と軽薄そうに修司が笑った。
「……ちょっと待って、冗談でしょ?」
「冗談でパンフ取り寄せないよ。いいだろ。札幌まで出りゃ叔父さんもいるし。自然が豊かで情操教育にいいんだって。おまえもね、毎日毎日しかめっ面してないで、そういうところで心とか育んだほうがいいよ」
山の半分が学校なんだって、と面白そうに修司が笑う。
あまりの提案に怒りよりも呆れが先に飛び出して、はあ? と宮田は大声を上げた。
「何言ってんの? もう合格圏内全部入って」
「いや、そこも勉強すごいやるみたいよ? そういう学校なんだって。おまえ、そういうの好きじゃん。丁度いいでしょ」
「なんで話が突然飛んでんの? 私が、今まで何のために塾行ってたと思ってんの?」
「だからもう塾もいいって。なんかすごい金かかるしさ」
俺、こないだ初めて引き落としの額面見てビックリしちゃったよ、とふざけられて、宮田はかっとした。
「お母さんがそんなの許すと思ってんの!?」
一瞬、修司はこちらを向いて、あ、とすぐに手の中の定期入れに目線を落とした。
「ロッカーの鍵、PASMOん中あった。鍵ってなんでこういうところに入るんだろうな」
やべ、坂本さん待たしちゃってるよ、と大袈裟に時計を見る演技をされて、宮田は向かいの椅子の脚を蹴り飛ばした。
「逃げんなよ」
低い声でどすを利かせると、部屋の中の空気が変わった。
「……お父さんに向かって何だその口の利き方は」
頭ひとつ、人混みの中で浮く高身長の修司は、その威圧的なアドバンテージを弁護士業でも存分に活かしていた。一度コミカルな外面を剝ぐと、粗暴で神経質な性格がすぐ覗く。
「毎日毎日、疲れて帰宅しておまえのヒスに付き合うのも限界なんだわ。何が問題よ? いいだろ北海道。俺が行きてえくらいだよ。大草原でキツネとまったり写真でも撮ってこいよ」
お父さんはもう決めたから、と修司が言い終えてすぐ、スマホのバイブ音が鳴った。
「あ~ごめんね、鍵あった。定期入れん中に。はい、はーい。いま出まーす」
途端にふざけた口調に戻った修司は、じゃあパパはお仕事だから、とそのノリのまま片手を振った。
こんな時、ほかの子は一体どうしているのだろう。
「食べて来るから、夕飯、パパの分も食べちゃっていいよ。家政婦のさ、堤さんだっけ? 量多過ぎんだよな」
玄関を出て行くまでの間、修司はひとりで喋り続けていた。
「坂本さんちのパグがさ、全然トイレ覚えないから犬の学校通ってんだって。犬に学校とかあんのかよ、ってビックリしちゃったよ。それに連れてくために、奥さんはパート減らしたんだって。すげえよな、パグのためにさ。おまえ、知ってた? そういう学校あるの」
家庭内の会話が大事なんだ、などと偉そうに、修司はよく宮田に語った。
修司のそれは、ひとりごとだ。宮田の話や気持ちなど、一度も聞こうとしたことがない。はなから娘のレスポンスなど、求めてはいないのだ。
「帰り遅いから、先に寝ててね。じゃ、行ってきまーす」
リビングの棚の上には、小物がとっ散らかっていた。下手に触ると逆鱗に触れる。宮田はそれを十分すぎるほどに知っていた。
静かになったダイニングで、宮田は考えていた。
失敗したのだろうか。
泣いて縋って謝ってでも、東京で受験をさせて欲しいと言うべきだったのだろうか。
そもそもどこまで本気なのだろう。高額らしい塾代を棒に振ってまで、本当に自分を遠くへやるつもりなのだろうか。離れたいのはこちらとて一緒だ。しかし、今更どことも知れない田舎の新設校に行くなんてあり得ない。そんなの、Dクラス以下の選択肢だ。六啓舘のAクラスの中でも最前列に座っている自分がそんなところに行くだなんて、誰が想像するだろう?
あれこれと考えているうちに、嫌なざわめきが胸に広がって、宮田は途中で食事をやめた。家事代行の作る料理には、もう飽きていた。
防音室の重たいドアをスライドさせて、電気をつける。
ピアノの椅子に座った宮田は、そのまま前に姿勢を倒し、つめたい鍵盤蓋の上に頰をのせた。ガラス越しに見るリビングはまるでモデルルームのようで、人の住んでいる気配がしない。
あ、とひと言発してみても、声はどこにも届かなかった。
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