「それって本当に私自身が望んでいたことなんだっけ?」とハッとした。
―フェミニズムの思想や「自分の人生を自分で選ぶ」ということが、世界的にも語られ始めているなかで、『おまじない』はその先のことが書いている短編集だなと感じたんです。それは、西さんがご自身の体験を通じて「女らしさ」や「男らしさ」をはじめとした、いろんな「役割」について考えてきたからなのかなとも。子どもの頃、「女の子らしい」と言われるのが嫌だったのはなぜですか?
西:兄がいて、小学校のときから『りぼん』より『ジャンプ』派で。『北斗の拳』が好きで、バットやラオウになりたかったんですよね(笑)。
―なりたかったんですね(笑)。素敵。
西:そうなんです。兄ちゃんのお古を着ていたし、ゾイド(動物をモチーフにした架空の兵器を組み立てるおもちゃ)で遊んでたし、男女問わずクラスで運動も誰よりできて。その頃はエジプトのカイロに住んでいたんですけど、性別で役割が区別されているというよりは、ひとりひとりの個性が入り交じった村みたいな感じだったんです。
それが小学5年生で日本に帰ってきたら、女の子は女の子同士でかたまっているし、みんなで連れ立ってトイレに行くじゃないですか。急に女の子市場に入った感じがして、結構な衝撃でしたし、寂しかったんです。でも、みんないい子だったので、中学も高校もすぐに馴染んで本当に楽しくて、そもそも私、セーラー服が着たくて高校を選んだんですよ。それってつまり、その頃には可愛くなりたいって思っていたんですよね。子どもの頃はあんなに嫌だったのに。
―環境が変わったら、その場に合った自分に変化していた。
西:そんなときに、トニ・モリスンという作家の『青い眼がほしい』という本を読んだんです。それは、「(女性の)美しさとは何か?」と問いかける作品で。「あ、たしかにこれって私、誰のためにしてんねやろ?」って衝撃を受けました。
その話は、黒人の女の子が母親から人形をもらうのですが、それが金髪で碧眼の白人で。「可愛いでしょ」って母に言われるんだけど、娘はその可愛さがちっともわからないから壊してしまって怒られる。それを読んで、私はバービーちゃんみたいに色白で目が大きくて足が細い子が可愛いと思っていたし、そうなりたかったけど、「それって本当に私自身が望んでいたことなんだっけ?」とハッとしたことをすごく覚えています。
「その人の見えない部分を、まわりの人がどうしてわかったつもりになれるんだろう?」と思うんです。
―可愛さや美しさの基準を、誰かが決めた価値観でインプットしてしまっていたかもしれない、と気づいたということですよね。それで言うと、その固定観念や、「母だから」「男だから・女だから」といった「役割」にとらわれずに自由であろうという考えがまずは広く周知されたらいいなと思うのですが、その先の話として、『おまじない』のなかの「孫娘」という作品では「役割を演じてもいい」と語られています。なぜこういう作品を書かれたのですか?
西:そもそものきっかけは、たとえばすごく明るくて元気な芸能人に対して、視聴者が「絶対に本当は嫌なやつだ」みたいな悪口をネットに書き込むことに違和感があったから。万が一ただ性格が少し悪かったとして、もちろん犯罪行為などをしていたらだめですが、そうではなくてふだん明るくふるまって、頑張っている姿を人前で見せてくれているんだったら、それってすごい努力で役割をまっとうしているってことじゃないですか。
なのにどうして邪推して、わざわざ嫌な気持ちになるほうを選ぶんだろう? って。その人の見えない部分を、まわりの人がどうしてわかったつもりになれるんだろう? と思うんです。
―疑ったり批評的な目線を持ったりすることは必要だけど、「本当は」とか「根は」みたいな言葉を使って、他者を決めつけるのは何か大切なものを見落としてしまう気がしますよね。
西:芸能人じゃなくても、たとえばAちゃんに「Bちゃんのことが大好きで」と言うと、思いやりの気持ちからだとは思うけれど「Bちゃんって本当はこういうところがあるよ」と教えられることってあるなあと。でももしBちゃんが、人によって態度を変える人でも、私にはいいところ見せたいって思ってくれているんだったら、私はそこだけを受け止めたいって思う。もし騙されたり、傷つけられたりしたら、そのときに本人に直接キレたい。だから先走って、「本当は……」って考える必要ある(笑)? その時間いるかな?
―今のお話をうかがって、人と人のコミュニケーションは当人同士で築けばいいのに、まわりが口を出してしまったり、その意見に左右されることってあるなと思いました……。
西:それで苦しんでいる女の子もいるんじゃないかな。すごくいい子や可愛い子は「裏があるんじゃないか?」と探されやすいから、実際は愚痴りたいことがあっても、「陰で愚痴を言っている嫌な子だって思われるから言えない」とか。そしてこれは自分自身を助けるために言っているところもありますが、愚痴を言うこと自体は仕方ないと思っていて。「そら愚痴を言いたいときもあるやろ! 許したってよ!」って(笑)。問題になるとしたら、その内容や誰に言うかってことであって。
なにかしらの役割を担わなければいけないときに、自分を楽にできる考え方を増やしておくことは、助けになるんじゃないかなって。
―たしかに。あとは「孫係」の女の子もそうでしたけど、客観的に自分を見ることができたり、うまく立ち回れる人も、本音と建前をあわせもつ自分を偽善者なんじゃないかと悩んでしまうことってあると思うんですよね。
西:それは真面目でいい子だから思うんだよね。役割を演じるとか、本音と建前の両方を肯定するっていうのは、自分の得のために相手をだますのを許すということではないですよ。でもたとえば、思春期にお父さんのことを気持ち悪いと思ってしまったとき、「気持ち悪いねん」って正直に言うことだが正解ではないと思うんです。たぶん、愛があるなら、心では触りたくないな……と思ったときに、嘘をついて「いい娘」でいようとしてもいいんですよ。
そういうあなたは悪くないし、いい子ぶりっ子でもない。いい子だから、いい人になろうと努力できるんだと思う。物語にも書いたけれども、「得をするため」ではなくて、「思いやり」の範囲で役割につくのはいいことなんじゃないかな。もちろん、本音を言えないことに悩んでいる人は、言えるようになったほうがいいし、「役割」にはめこまれてしまうことに苦しんでいる人は、解放されたほうがいい。でも人と人が関係し合って生きていくうえで、なにかしらの役割を担わなければいけないときに、自分を楽にできる考え方を増やしておくことは、助けになるんじゃないかなって。