「言葉は祝福にもなるし、呪いにもなるんです」。そう語った作家・西加奈子さん。8年ぶりに発表した短編小説集『おまじない』は、少女、ファッションモデル、キャバ嬢、妊婦……など、ひとりひとり異なる女性と、彼女たちを救いだすおじさんたちの「おまじない」の言葉を編んだ物語。「全ての女性を肯定したい」のと同時に「おじさんたち」に柔らかなまなざしが注がれたこの作品には、人同士が性別を問わずにフラットにちゃんと優しくなれますようにという願いが込められています。
「こうしなければいけない」という呪いを解いた先の世界では、もしかしたら「『こうしなければいけない』から脱しなければならない」ということも、時には呪縛になり得てしまうのかもしれない。そんなふうに「正しいこと」を求めていたはずなのに、いつのまにかその「正しさ」に縛られていってしまうことは一見気づきにくく、でもそこにあるたしかな矛盾が柔らかく指し示され、「自由な自分の心をどうやって取り戻すのか?」という道筋が示されているのが、この『おまじない』です。
今回のインタビューで西さんが何度も語っていたのは、「しんどくなったら、捨てていい」ということ。救ってくれた言葉のことも、正しいとされている価値観も、しっくりこなくなったら自分と距離をおいていいんです。自分をしんどくさせているもの、心を縛っているものは何なのか? そこに目をこらして、その呪いを解いた先に、あなただけの言葉や感情に出会えますように。
すべての女の子や女性を肯定する作品をつくりたいと思った。
―8年ぶりの短編集として発表された『おまじない』は、さまざまな女性の人生が「変わる」瞬間を描いた作品です。なぜこういったテーマで作品を書こうと思われたのですか?
西:もともと長編が好きで、短編はすごく苦手だったんです。でもそれだと作家としての書く力が向上していかないと感じていたし、尊敬している角田光代さんが「短編の千本ノックをしていた」とお話しされていたのを聞いて、私も努力しなければと思ったんです。
「燃やす」という一番最初の物語を書いたときに、この本のテーマは「おまじない」だなと。すべての女の子や女性を肯定する作品をつくりたいということも、「おまじない」の言葉をもたらす人たちがいわゆる「おじさん」と呼ばれる人たちであるということも、そこで全部決まって。
―「燃やす」は、従来的な「女らしさ」を自分に求める祖母と、それを嫌う母という異なる価値観を持った二人の間で揺れ動きながら育った女の子が、いわゆる「女らしい可愛さ」を身につけた途端にまわりから注目を浴びて、あるひとつの事件に遭遇するお話です。『おまじない』自体のはじまりでもあったというこの短編は、西さんのなかのどういった思いから書かれたのでしょう?
西:当時、言いたかったことのすべてだったというか、今、フェミニズムのムーブメントが世界的に起きていますよね。日本はまだ全然遅れているけれど、それでも動きの波はちゃんと感じることができて、それが本当にめちゃくちゃ嬉しくて、誇らしいんです。
でもどこかで、自分自身が「かっこいいフェミニストの一人でありたい」と気負っている部分があるからか、意思のある素敵な女性たちと会うときに、「こんなこと言ったらいけないかな……?」と自粛してしまうことがあると気づいて。
―というと?
西:たとえば先日子どもが生まれたのですが、私自身は赤ちゃんのことがすごく可愛くて、妊娠中も「マイベイビーちゃん、天使ちゃん、早く会いたいよ!」ぐらいのテンションだったんです。マタニティフォトを撮りたい気持ちをすんでのところで止めたぐらい、高まっていて(笑)。でも「それって『母性』にとらわれてない?」と言われたらどうしよう……という不安もあったし、自分でも「もしかしたらそうなのかな?」って思いもあって、その感情をはっきり口にできないちょっとしたわだかまりがありました。
あとは、みんなでご飯を食べているときにサラダを取りわけたいけど、今ここで私が取りわけたら嫌な気持ちになる人がいるのかな、とか。
―「サラダは女性が取りわけるもの」という価値観の不平等さに対して、それを変えていこうというポジティブな動きがあるからこそ、逆行するような行動に悩んでしまうということですよね。
西:そうなんです。でも、男性がいるからサラダを取りわけたいわけじゃなくて、女性同士の飲み会でも取りわけたいなと思うんです。だったら思うままにやればいいのだけどなぜか気兼ねしてしまう……とぐるぐる考えていたことが、本を書きながらリンクしていきました。
何かを強制する「空気」は取り払ったうえで、その後の選択は、ひとりひとりの個人に任せられるといい。
西:私自身は「燃やす」に出てくる女の子とは逆で、子どもの頃はいわゆる「女の子」として見られるのがずっととても嫌でした。でもこの物語の女の子みたいに、女の子として「可愛いね」と言われて嬉しい子がいてももちろんいいし、「可愛くなりたい」とか「綺麗になりたい」っていう感情や、セクシャルな欲望も含めて、肯定するような話を書きたかった。そうすることで、自分自身も自由になりたかったんですよね。
―「『こうあるべき』にとらわれないようにしよう」ということも、どこかの時点で「こうあるべき」という呪縛になり得るということですよね。
西:そうそう!
―今は過渡期なのかもしれませんね。フェミニズムのムーブメントもサラダ取りわけの話もそうですが、これまで不平等だった現実があって、それに対して異議申し立てをするのは必要なことで。
西:そう。それがようやく実現し始めた今の状況というのはとても素晴らしいものですよね。でも、その異議申し立ての内容がいつも必ずしも「全て正しい」わけでもない。そこで出てきたひずみや歪みを都度検討してよくしていく必要があるし、「女性はサラダを取りわけるべき」といった前提は当然変えていくべきだけど、そのうえで取りわけたい人は取りわければいいし、やりたくない人はやらなければいい。何かを強制する「空気」は取り払ったうえで、その後の選択は、ひとりひとりの個人に任せられるといいんじゃないかな。フェミニスト、と言っても絶対にひとつにくくることはできないですから。
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