女性である以上に「私だからできること」をやったほうが、絶対に面白い。
ーそんなふうに続けたり、活動を休止したりするなかで、ご結婚や出産を経験されたり、年齢も変わっていって。社会的に「女性」という立場で仕事をするにあたって、感じていらっしゃることはありますか?
本谷:劇団をはじめた当時、女性で作・演出をやっている方はまわりでは限られていたんです。だからこそ、自分の若さでやることができたら目をひくに違いと思って、「劇団、本谷有希子」という自分の名前を、わざわざ劇団名にしました。
ー自分自身の名前を冠した、インパクトのある劇団名ですよね。
本谷:どんな手を使ってでも、まずは興味を持って見てもらわないといけないと思っていたから。少しまわりを煽っているようなところがあったと思うんです。わざと人の神経を逆なでするような、生意気で攻撃的な態度で世のなかに出ていった。
おかげで目立ったけれど、そこから10年ぐらいは本当に風当たりが強かったし、敵もたくさんつくってしまいましたね。30代に入ってから、ようやく風当たりが弱くなってきました。作品を10年つくり続けてきたということが、認められはじめたのかなと自分では思うんだけど。
ー女性の作家が少ない環境で、自分がリーダーシップをとって演劇をやるというのは、どんな体験でしたか?
本谷:当時、演劇界は男性社会だったんですよ。照明さん、音響さん、舞台監督さんなど、演劇をつくる人たちは、裏方も含めて男性が圧倒的に多かったし。だから演出家が若い女性であることで、どう舐められないようにしよう? みたいなことは常に考えてました。
それで単純だけど最初は、「女性らしさ」をなくそうとしたんです。たとえば、いわゆる「女性らしい」服装や言葉づかいをしないようにしたり、感情にムラがあると思われないようにしたり、ものごとを伝えるときに、なるべく論理的な言葉で伝えるようにしたり……。っていうことをやっていたんですけど、途中でバカバカしくなってきてしまって。「なんでこっちが合わせなきゃいけないんだろう? そっちが理解すればよくない?」って(笑)。
ー(笑)。
本谷:それで少しずつ、「この赤い照明がいいのは、だって、いいからいいじゃん」みたいな言い方に変えてしまった(笑)。相手が理解できるようにいろんなヴィジュアルを見せて、「これはイケてる。これはイケてない。わかる?」って散々、自分の感覚を伝えて。言語で説明しない姿勢というのは、はたから見たら、いわゆる「女性的」で「感覚的」な言い方だったかもしれません。でも女性である以上に「私だからできること」をやったほうが、絶対に面白いものができるというふうに考えが変わっていった。だから人に「わからない」と言われても、自分の中で筋が通ってればそれで押し通した。ものすごく不安でしたけどね。でもそのほうが変なものが生まれる、変なものじゃないと意味がない、って信じたんです。
ー「女性だから」という理由で舐められないために、「女性的」だと思われそうな所作を自分から遠ざけてきたけど、よく考えてみれば、ひとりひとりの個人は別に「女性だから」というアイデンティティで常に考えたり発言したりするわけではないですよね。だから、「女性だから舐められる」と自分で封印してきたことは、つまり自分自身を封印してしまっていたとも言えるのかもしれない、と思ったりしました。
本谷:女性であることが、制作環境におけるマイノリティだったので、居場所がなくて肩身が狭かったけれど、一旦開き直ってみたら、希少な意見だから耳を傾けよう、とまわりが変わってくれた。それをきっかけにマイノリティであることは、逆に武器になりえると感じたんです。
思っていること自体は変わらないけど、理解してもらうための伝え方を相手に合わせてしまっていた。それを、自分がしっくりくる伝え方に変えていったら、相手のほうが私が持っている感覚を理解しようと歩み寄ってくれた。なーんだ、無理して合わせなくてよかったんじゃん、って。
ー感覚が違うままでも、お互いにいいコミュニケーションが生まれていったんですね。どんな環境においても、性別や肩書きのラベルでくくると、数の大小という差はあって、それがマジョリティ、マイノリティの境界線になるわけですが、本質的には個人同士の集まりですもんね。今のお話は、男性/女性などの性別にとらわれず、自分が思っていることを心に合った方法と言葉で伝えたことが、結果的に目の前の人たちとのコミュニケーションを円滑にしたとも言えそうです。
本谷:いい舞台をつくるという意味では、目的は一緒なんです。そのときは「女性だから」ということが弱みにも強みにもなると感じていたけれど、今考えると「私はなにをしたいのか」ということしか、実はみんな興味がなかった。性別にこだわってたのは、むしろ自分だったんですね。