感覚がすごく過敏だから苦しんでいて、でも過敏だからこそ、彼女たちの目にはなんでもないものが強烈に綺麗に映ってるんじゃないかと。
ー趣里さん主演で映画化される『生きてるだけで、愛。』の原作は、2006年の作品ですよね。登場人物たちが自分とマジョリティの「普通」の間で葛藤するようなテーマが描かれていますが、寧子や津奈木を書いた理由や、今改めて彼女たちをどう感じるかについてうかがいたくて。
本谷:寧子や津奈木は、今の言葉で言ったら、おそらく「生きづらい」人ですよね。こういう、自分を持て余している人たちから見た世界はすごくしんどくてしょうもなくて汚いのと同時に、「普通」の人、つまり、ある意味感覚が麻痺して「鈍感」な人間だったら決して見られないような、綺麗で美しいものを見ているんじゃないかって。当時はそこまで自覚して書いていませんでしたが、その彼女たちのまなざしで、自分が生きてる場所を見てみようとした小説でした。
ー映画でも、スカートがひらめくその瞬間が美しくて、それこそが二人が一緒にいる理由であるというようなシーンが印象的に使われていますよね。日々の細部に、そういう取るに足りないのに忘れられない、なにかを決定づけてしまう強烈な美しさって確かにあるなと。
本谷:感覚がすごく過敏だからすごく苦しんでいて、でも過敏だからこそ、彼女たちの目にはなんでもないものが強烈に綺麗に映ってるんじゃないかと思ったんです。昔から、私は綺麗なものだけを書くのはあんまり好きではないんです。なぜなら、綺麗なものを見る代償のようなものが存在すると思っているから。私自身、だんだん感覚が麻痺してしまって、昔なら理解できないと立ち止まっていたものを、思考停止してスルーできるようになってきてしまっている。それは楽なんだけど、やっぱりどこかで代償を払っている気がするんです。
だからこそ、寧子の目で世界を見ることに手をのばすんです。正直なところを言うと、この小説はもともと特に生きづらい人に寄り添うものとして書いたつもりはなかったんですよ。だから、「救われました」といった感想を頂くと、未だに戸惑いますね。毎回、そう読んでくれるんだっていう驚きがあります。
ーこの作品には、躁うつ状態で、社会とうまく接点をつくれない寧子と、出版社に務めていて一見うまくやれているようでいるけど、自分の本音を伝えることができない津奈木、そして他のいびつな登場人物たちも含めて、「普通」からはこぼれてしまう人たちのさまざまな叫びが描かれていますよね。
本谷さんは、SNSをテーマにした3つの短編集『静かに、ねぇ、静かに』も今年発表されていますが、おそらく今、SNSなども含めてさまざまなコミュニケーション手段があるなかで、その情報量の多さや、波風を立てないコミュニケーションを無意識下に強いられるせいで、自分がなにを考えているのかわからなくなってしまう人って多いのではないかなと思っていて。そういう人が、『生きてるだけで、愛。』を読んだり観たりして、どこか解放される感覚になるというのは、わかる気がします。
本谷: 新刊は『生きてるだけで、愛。』とは作風も違うし、もっと意地悪な視線も入ってます。読者を救おうなんておこがましいことは今も考えないけれど、でもやっぱりどこか解放はされてほしいんですね。がんじがらめになっているものに。初期のころは特に、寧子のような激しい女性しか書いてこなかったんです。それこそさきほど話した自分の20代の頃みたいに、なにかに取り憑かれているような女性たち。私自身がそういう代償を払わされる人間に惹きつけられるし、同時に少し近親憎悪みたいなものもあるから。
処女戯曲の『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』に関しては、登場人物の勘違いの激しい姉が夢は叶うと思い込み、社会との折り合いのつかなさを無視する。その痛々しさと滑稽さを、公開処刑のように見せて妹が笑っている。そんな戯曲なんです。それを『生きてるだけで、愛。』は反転させて、生きづらさをどこか綺麗なものとして描いている。だからやっぱり、これまで書いてきた作品を振り返ってみても、自分にとって、本当に美しいものと醜いものは表裏一体だと思っているんですよね。私は寧子を援護するつもりもないどころか、人に対して甘えきっているのを断罪したい気持ちもある。だけど、彼女が見る世界の美しさも感じとりたいと思っている。
「生きづらい」のは、違う人同士が同じ世界で生きるうえで、当たり前のこと。
ー本谷さん自身は、寧子をはじめとしたこれまでの作品の登場人物そのものではないけれど、彼女たちに近親憎悪のような気持ちがあるということは、ご自身のなかにも、世間や社会とのなにかしらの折り合いのつかなさを抱えているということですか。
本谷:それはきっと、生きている全員が抱えていますよね。ただ、私のなかでは『生きてるだけで、愛。』を書いた10年以上前と今では、世のなかで使われている「生きづらさ」という言葉の質感が若干違う気がして、引っかかっています。飲み込みやすくされているというか、世間一般のフレーズになりすぎているというか。とにかく違和感があるんですよ。
生きづらさに、「いい感じ」のニュアンスが入ってきている感じがするんですよね。生きづらいということが、ある種のファッションというか、免罪符に使われていてる気がして仕方ない。「だから自分たちはいいんだ」みたいな、そういうぬるい雰囲気は好きじゃないですね。あまり言われると、気持ち悪くなるときもあるし。言葉に対して鈍感にならないようにしようと気をつけているので、なおさらかもしれないけど。
ー今は「生きづらさ」という言葉が免罪符的に使われているかもしれないけれど、生きている多くの人が、その言葉の奥にある、折り合いのつかなさみたいなものを抱えているとしたならば、本谷さんは、これまでそれをどうやり過ごしてきたんですか。
本谷:歯をくいしばってりゃ終わるみたいな。……と言うと雑に聞こえるかもしれないけれど(笑)、ほんとにそう思います。たとえば、お芝居や小説が酷評されることって、自分自身を否定されること。でもその時間も、歯くいしばってりゃ終わるんですよね(笑)。そして誰も覚えてない、みたいな。自分が期待したほどの存在じゃないっていうことは、昔の自分にとっては「死」に等しい感覚なんですけど、その悔しさも、「歯くいしばってりゃ終わる」。どこからきたのかわからないけど、いつからかそう思うようになりましたね。
『生きてるだけで、愛。』というタイトルも、当時は事故みたいに出てきた言葉でした。それが15年以上経って、時代も変わって、今の時代に、ある意味で力をもつ言葉になった。「生きづらさ」もそうですけど、時間が経てば、受け取り方の感受性も変わるんですよね。変わって当然だからこそ、今の自分の手の内におさまらないフレーズや言葉に敏感でいたいんです。
ーそれが本谷さんの、社会との対峙の仕方なんですね。
本谷:はたして向き合っているのか、やり過ごしているのか、自分でもわからないけど(笑)。でも生きづらいっていうことが、声高に言われるのはなにかが違うという気は、やっぱりします。だって「生きづらい」のは、違う人同士が同じ世界で生きるうえで、当たり前のことだから。今さらなにを言ってんの、って。だから結局、じゃあそこで、どうやって生きるかなんだよな。
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