「私って人格多すぎるかな?」「自分らしいってなんだろう」って、一時期悩んでいたんです。(MICO)
─MICOさんはよく旅をされていますが、旅行も異なる文化の中に身を置くことで、自分の普段の暮らしや環境について新鮮な眼差しで見ることができる体験ですよね。
MICO:そうですね。旅行に行くのは変わりたい衝動があるからかもしれなくて。旅に行くと知らなかったことを知るし、違う価値観が自分の中で生まれるから、日本に帰ってきたときに新しい価値観を宿した自分で生きられるんです。
─変わることの楽しさについてはさきほどもお話されていましたね。
MICO:私は誰といるかでちょっと人格が変わっちゃうところがあって、「私って人格多すぎるかな?」「自分らしいってなんだろう」って、一時期悩んでいたんです。今は「この人の前で喋っている自分が好きだな」と思える自分を軸にしたいとは思っているんですけど、それだけにこだわって、せっかく存在しているいろんな自分が死んじゃうのはもったいないし、いくつもの芽を持っているから楽になれることもある。だから、今年はもっと自分の多面性を認めていってもいいのかなという気持ちがあります。
穐山:私は、大人になるまで、世の中に見えないけど存在している「こうあるべき」的な価値観を気にして生きてきたタイプだったんですよ。それがあまりにも辛くなりすぎて爆発しちゃったんだと思うんですけど。
婚約破棄によって「やっぱり違う!」ってなった。そこでようやく自分で選択しなきゃだめだと思えたんです。(穐山)
─何か爆発するきっかけがあったんですか?
穐山:いろんなところでこの話をしているんですけど、婚約破棄をしたことがあって。婚約破棄をするまでは、世間でよしとされている価値観を一回素直に取り入れていた自分がいました。結婚は30歳くらいまでにしようとか、社会人としてはこういう振る舞いをした方がいいとか、好きな人に気に入られるためにこういう髪型はしないとか。特段意識はしていなかったんですけど、振り返るとすごくそういうことをしていて。
MICO:本当の本当に無意識でやっていることってありますよね! 怖いくらい気づかないの。
穐山:知らないうちに生活に侵入してきてるんですよね。でもそうやってうまくこなすことをよしとしていた時期があったんです。ただ、だんだんと自分との乖離があることに気づき出して。婚約破棄によって「やっぱり違う!」ってなった。そこでようやく自分で選択しなきゃだめだと思えたんです。それが映画をつくり出した時期とも重なっていて。
─世の中に望まれているかもしれない価値観と自分の実態とのズレに気づいていたとしても、そこまで「うまくこなす」ことができていたのだとしたら、ズレたまま続ける方がもしかしたら楽かもと感じてしまいますよね。穐山さんがそのときに流されずに自分で選べたのはどうしてなのでしょうか。
穐山:「うまくこなす」ことって、すごく表面的で場当たり的な楽さなんですよね。そうやって、その場は傷つかないように消去法的に道を選んでいたら、いつのまにか自分が思っていたのとは全然違うところにいた。でも、誰かが助けてくれるわけじゃないし、そこに行き着いちゃったのは自分の責任だってようやく気がついて、軌道修正できたんです。多分ずっと、傷つくことが怖かったんでしょうね。
─傷を怖れなくなった。
穐山:傷を負っても生きていけることがわかったし、「意外と悪くないな」と思えるようになったんです。そこまで追い詰められたからこそ、自分と違う価値観の人から攻撃のようなものを受けたとしても、私は私だって、ようやく切り離せるようになりました。
「なんであの人はこういう風に言ったんだろう」って、表面だけじゃなく、もう少し裏側まで想像してみることがあるんです。(穐山)
─映画をつくり出した時期とご自身で主体的に選択することの大切さを感じられた時期が重なっていたということでしたが、映画をつくることは考え方に影響を与えた部分があったと思いますか?
穐山:他の人の考えについて「なんであの人はこういう風に言ったんだろう」って、表面だけじゃなく、もう少し裏側まで想像してみることがあるんです。こういう性格の人だからこういう選択をとって、こういう行動に繋がっているんだっていうことが、映画に出てくるキャラクターにとってはすごく重要なので、そういう部分は実生活にも跳ね返ってきてるかもしれないです。
─映画の登場人物という、自身とは別の人生を送る人の生き方について考える時間を持ったことで、異なる価値観を持つ人とほどよい距離感を保つことにも繋がったんですね。
穐山:そうですね。ちょっと昔に「女性は産む機械」という発言をした政治家がいましたよね。公の場でそんなことを言うってちょっとびっくりするんですけど、「なんでこんな発言しちゃったんだろう」と考えると、その人自体が間違っているというよりは、ただそういった価値観で生きている人だというだけだな、とも思うんです。そこに今の時代の感覚が乗っかってくると、もちろんいろいろな議論を呼んだりするけれど、一昔前まで普通とされていた価値観に今も乗って生きている人であるだけとも言えて。
そういうたくさんの視点があることがこの世界をつくっていて、そのうえで自分はどう考えていくのか選んでいくことが必要だと思うんです。もしもその政治家のような発言をする人を映画に登場させるときに、ただそういうことを言う人がいるという描き方にするのか、「こいつは悪いやつだ!」という描き方にするのかは、私の視点の問題。イラッとくる発言をする人がいたとしても、その背景にある事情を想像するようにしていますね。