心を砕いて内容を伝えようとしている姿勢が伝わってくるテキストを読むと、これがもしも読まれていなかったとしたら許されないことだと感じます。(齋藤)
―実際に集まったパブコメを見て、意見が多いものや、あるいは印象的だったものなどがあればいくつかおしえてください。
齋藤:COVIT-19感染拡大防止のための対策自体の不十分さを指摘する声、自粛要請に伴った補償が十分でない故にその解決を求める声、そして5月半ばには、検察庁関連法案への抗議の意見が多くありました。
個人的には、派遣社員の方の意見が印象に残っています。代弁者ではありえない当事者の意見に心が震えました。本来、怒りも悲しみも喜びも、それぞれ個人の心に起こる感情です。他の誰のものでもない。そのテキストにある怒りと悲しみからはその人がその人であることが伝わってきて、なおかつ、複合的な原因によってその人がその人であることの尊厳が踏みにじられている状況の苦しさを知って、驚くと同時に涙が出ました。そして、“この人の悲しみはこの人自身のもので私はこの人ではないという強い実感”と“他者の悲しみへの共感”が併存する状態について、このあらゆる当事者の状況を解決することこそ政府や行政の役割であるのではないかと強く感じました。
また、読み手を「政府」ではなく一人の人間であると想定して書いたと思われる、心を砕いて内容を伝えようとしている姿勢が伝わってくるテキストを読むと、これがもしも読まれていなかったとしたら許されないことだと感じます。
うら:書いたパブコメの文章が公開されることで、実際に投函されるパブコメの量が増える気がしています。わたしはこれまでかなり一生懸命長々と若干お役所言葉を意識してパブコメを書き送っていたのですが、パブコメ閲覧室に投稿されたものを読んでいると必ずしもしっかりとした文章というわけではなく、思いの丈を簡潔に綴っていたりする人も多いということがわかりました。
『パブコメ閲覧室』は美術作家としてではなく、イチ人間としてやっています。(うら)
―うらあやかさん、齋藤春佳さんは、普段どのようなご活動をされていらっしゃいますか? 美術作家としてこれまで作られてきた作品などもおしえていただけたらうれしいです。
齋藤:私は絵画、インスタレーションなどを制作しています。「時間は本当は流れてなんかいなくて、物体等の運動エネルギーの総体が便宜的に時間と呼ばれているだけ」という立ち位置から、記憶や視覚の構造を時空間の構造と紐付けた作品を制作することが多いです。
たとえば2017年に埼玉県立近代美術館で発表した『影の形が山』という作品は、「祖母が『結婚前におじいちゃんと山登りに行ったんだけれど、かりんとうを3袋も持ってきて嫌だった』と常念岳という山を見るたび何度も語る」という出来事から派生して、見ることはできないけど語りによって知ることだけはできる60年前の出来事、山中の様子はわからないけれど二次元の稜線として見ることはできる遠くの山……などの要素を、ナレーションと3つの映像と立体とその立体が壁に落とす影によって構成した作品です。見る人の時空間的立ち位置を揺るがすような効果をもたらす…と言うとまとまりがいいですが、そこまで整理された意図はありません。
齋藤:脳みそだけではなく物や文章や光を使って考えていった結果、自分の頭の中だけではたどり着けなかった状況が生まれる時に心が滾るし、作品が形としてあるとそこからさらに思考を進めることができるのが嬉しいし助かる。というのが作品制作における正直な実感としてあり、それを続けてきている感じです。現在は、東京都美術館で行われている都美セレクション2020『描かれたプール、日焼けあとがついた』という展覧会を美術家の松本玲子さんと行っています。
また、うらと齋藤が共通して参加しているコレクティブとして「Ongoing Collective」があります。
うら:わたしは鑑賞者がその場で何かしらの方法で関わることで作品が立ち上がるプロセスを持った参加型の作品を主に作っていて、その中でも身体を伴うパフォーマンスの形態で作品を作ることが多いです。鑑賞者にこういうことをやってくださいと指示をして、そのタスクを通して鑑賞者の内に作品を立ち上げるイメージで制作しています。複合的な思考あるいは知性が持つ姿形が「作品」なのかもしれないなと最近では思っていて、そういう意味で「集まりのデザインをしています」と自己紹介することもあります。人の集合としての「集まり」というよりは、様々な情報の結び目(=集まり)としての作品を鑑賞者の内に作るためのデザインで、複数人で取り組むものでもわたしが扱いたいのは普遍的な(それでいて具体的な個人へと照り返す)ひとりだったりします。
「パブコメ閲覧室」は美術作家としてではなく、イチ人間としてやっています(もちろん美術作家もイチ人間としてやっています)。自分が瞬発的に、必要だと感じてとるあらゆるアクションや活動を、必ずしも作品に結びつけなくてもいいと思っているのですが、これは自ら、活動を始めるにあたって「この活動は自分のこの作品とこういう点で関連している」というような理由を作る必要はないという意味です。作品と直接結びつけて考えずに動き始めたこの「パブコメ閲覧室」のような活動も、どこかしらで作品の内容と結びついているんだろうと思います。
齋藤:パブコメ閲覧室の活動を必ずしも美術作家としての活動に結びつけなくてもいいという態度について、自分も同意しています。私としては、作品を通さないで直接やったほうが強いこともあるというか、世界に対して働きかける効果を狙いたい(おもちの絵を描くよりもおもちを焼くほうがよい時がある)。作品において政治的なコンテンツを直接的に扱う是非は個々の作家どころか個別の作品におけるまた別の繊細な問題だと思うのですが、逆に言えば、自分の作品のことを直接的ではなくとも世界に本当に効くはずだと信じているからこそ、そう思います。
Twitterからパブコメ、そしてパブコメ閲覧室へと書いた文章をコピペして送り先を増やすことで、意見を言うハードルがぐんぐん下がればいいなあと思います。(うら)
―「パブコメ閲覧室」はどういう人たちに使っていただきたいと考えていますか?
齋藤:どなたにでも使っていただきたいです。パブコメ閲覧室で閲覧できるのはパブコメなので、誰もが送る権利があります。運営が望む、あるべきパブコメというものは存在しません。さらに言うならば、自分が普段会うことができない人の意見を読むことができるのが、本当に勉強になるし興味深いです。
うら:自分の身近な範囲であったり、特定のコミュニティの人にだけなく、例えば友達には到底なれないような人にも利用してほしいです。また、Twitterに色々書いている人も多いけれど、パブリックコメントは送っていないという人も結構いるように思います。Twitterからパブコメ、そしてパブコメ閲覧室へと書いた文章をコピペして送り先を増やすことで、意見を言うハードルがぐんぐん下がればいいなあと思います。
自分にとって「パブコメ閲覧室」を作ってよかったなと実感したのは、政府に対する怒りを置いておく場所が自分の体の外にできたこと。(齋藤)
―「パブコメ閲覧室」がこれからどのような場所になっていったらいいと願っていますか?
齋藤:自分にとって「パブコメ閲覧室」を作ってよかったなと実感したのは、政府に対する怒りを置いておく場所が自分の体の外にできたこと。ベランダのトマトを観察している瞬間、政府に対する怒りに乗っ取られるのは悔しいことです。私は制作において、日常生活における心や思考を使うのでなおさらそう思います。
個人的な感情、喜び、怒り、悲しみは、制作に注ぎこみたい。本来は、そうやって個人がある意味“自分のこと“をするために政治の仕組みがあって、政治家や専門家の方がいるのだと考えます。だけど今は残念ながら、暮らしの基盤を政府や政治家の方だけに任せておけない状況なので、私たちのような個人が「パブコメ閲覧室」を作らざるを得なかったのだと考えています。つまり、「パブコメ閲覧室」が単なるガス抜きの場所に留まらず、政府にとって放っておけないくらいのメディアになって、さらには最終的に政府や行政が運営してくれたらいいなというのが願いではあります。いつか政府をそのくらい信頼することができるようになることは叶わぬ願いである気もしてしまう現状が悲しいのですが……。
もう少し現状に近い願いで言うと、Webデザインや形式について、手伝ってくれる運営メンバーを募集中です。もっと使いやすい、かっこいいサイトにできればいいな! と考えています。
首相官邸などの意見募集フォームから送った意見を集め、公開するサイトをうらあやかさん @urayaka と一緒に作りました。
【パブコメ閲覧室】https://t.co/z061XrTWGH
もしも送った文章をとっておいていたら、コピペして投稿してもらえたら嬉しいです。
これから送るものでも。
匿名でも。 pic.twitter.com/6JGW1VOuJd— 齋藤春佳 harukasaito (@hal_cam) April 20, 2020
齋藤春佳さんと企画しました。
頑張って書いたパブリックコメントが吸い込まれてどうなったかわからなくて、自分たちでその記録をとらないといけなさそうというところから始めました。ほんとは検閲のしようがない掲示板形式にしたいです。技術者求む! https://t.co/8szH0lUoRg
— ayaka ura (@urayaka) April 20, 2020
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