少女漫画が好きだ。わたしは小学生のころ少女漫画を通して、クラスの女子をいじめる不良男子に立ち向かったり、悪の力から地球を守ったりする女子ヒーローたちに憧れた。世間で「ヒーロー」といえばほとんど男の子のことで、守られるのは女の子という物語が溢れているけれど、少女漫画の世界では女の子が守られるだけではなく、ヒーローそのものになれる作品も多くあった。わたしには、自分も大人になれば、勇気を出せば、いつかこうなれるかもと思えるような女の子たちが物語に存在していることがとても大切だった。
しかし大人になった今、わたしは少女漫画が時に社会やメディアからどれほど揶揄的に扱われるかもよく知っている。少年漫画の多くは夢や冒険といった「みんなが憧れるもの」として語られるが、それに対して少女漫画は「女だけが読む恋愛夢物語」といったような、もっと閉鎖的で特殊なものとして語られることが少なくない。少女漫画での表現を異質な世界のもののように扱い、時には誇張しネタとして消費するような一時期のメディアでの「壁ドン」(*1)の揶揄的な扱われ方を思い出しても、女の書いたものは劣っていておおっぴらにバカにしてもいい、どんな形であれ女の欲望を表したものは肯定しないという空気は存在しているように思う。
ある女性漫画家が「あなたの少女漫画は少女漫画の枠を超えていると褒められることがあるけれど、少女漫画をバカにしないでくれと言いたい」と答えているインタビューを読んだことがある。少女漫画界で立派なキャリアを積んできたプロの漫画家に向かって、作品の「少女漫画らしくなさ」を安易に褒めることができるということから考えても、少女漫画が社会でどのように扱われているのかを想像するのは難しくない。
最近、「少女小説家」と呼ばれた氷室冴子さんのエッセイ集『ホンの幸せ』(1995年)という本を読んだ。数年前、わたしはかつてジブリが映画化した氷室さんの作品『海がきこえる』(*2)をきっかけに、氷室さんの書かれた他の作品や、エッセイ集を読むようになった。文章から伝わってくる彼女の博識さ、女性一人の旅行が珍しかった時代にさまざまな場所に一人で乗り込むようなパワフルさには本当に驚かされたし、同時に彼女のことが大好きになった。氷室さんが亡くなったあとのことだった。
氷室さんはエッセイ集『ホンの幸せ』で、少女漫画の世界が自分の漫画のスタンダードだと思って生きてきたのに、世間では男の人の価値観がまかり通っていて、女子の価値観はおまけのようなものだから、世間の言う「漫画」というのは少年漫画のことであり、女性の価値観を男の人の世界に入れてもらうには「少女」という言葉を入れて特殊化しないといけないのだと気付いたといったことを書かれていた。
当時、このエッセイがどれほどの反響を起こしたのかわたしには分からない。それでもこれを読んだとき、わたしは氷室さんの文章がこれを書かれたよりずっと先の未来で、迷えるわたしたちを今までずっと待っていてくれた気がしたのだ。
また氷室さんが当時フェミニズムを支持し、フェミニストたちを揶揄的に扱うマスコミを批判されていたことも知った。今でもフェミニストだと名乗ったり、フェミニズムを支持すると公言したりするのは残念ながら簡単ではない時代だ。それでも、いまより20年以上前にそのことに気付き、抗い、書き残してくれていた女性がいたのだった。先人を知ることは未来を知ることでもあると思い、わたしにとって未来からきた女性は彼女だと思った。わたしはこれからも彼女が書き残してくれた物語を読み続けるだろう。
そして、まだ知らない未来でわたしたちを待ってくれているであろう先人たちのことを考える。これから未来でどれくらい先人たちと出会うことができるのか、そしてわたしも未来で迷える誰かを待つことができるようなものを残せるのだろうかと。
* 1 『別冊フレンド』で連載されていた渡辺あゆによる作品『L♥DK』が、「壁ドン」の流行の火付け役となった
* 2 1990~1992年にかけて『月刊アニメージュ』にて連載