その夜、アタシは疲れきっていた。緊張する相手とふたりきりで飲みに行った帰りだったからかもしれない。会話の内容がつまらないわけでもなく、相手のことが嫌いなわけでもないけれど、妙に気持ちがスムーズに乗らない、みたいな感じのモードは、気づかないだけでけっこうアタシをたぶん疲れさせる。っていう、本当にどうでもいい、かわいくない理由を無理くりつけて、もうそろそろ終電も終わるっていうのに、相手と別れたあとにアタシはひとりで飲みにでる。
一ヶ月に一度くらいの頻度で行くその場所は、バーと呼ぶには音楽が大きな音で鳴り響きすぎていて、バーと呼ぶにはこれといった会話もなく多くの人が酒を片手に身体を思い思いに揺らしている場所で、でも、クラブと呼ぶには小さすぎる規模、だいたい10人も入ればいっぱいになってしまうような、ついでにクラブと呼ぶには音楽は気持ち控えめに聴こえるみたいな、そんな場所だった。バー特有の、女がひとりで飲んでいるときに隣に座った男が話しかけるか話しかけないかっていう面倒くさい雰囲気もなくて、酒を飲みながら、なんとなく身体を揺らしていれば完全に無でひとりになれる、っていう気持ちにさせてくれるそこが、アタシはわりと好きだった。世界のどこを見ても、自分の思い出や痕跡だらけの道や街や時間を生きていて、完全にひとりぼっちになった気分になれる場所はかなり少ない。例えばここなら、アタシがそこで会った男とふたりきりで店を出たとしても、まるで自分が透明人間のように気を使わずに、気兼ねなくまた来れる(本当は店員にビッチと思われているかもしれないけれど、まあ、でも例えビッチだったとして、何が悪いというの、大人になるとしがらみだらけで本当にいやんなるけど、どうせ金もなくてほしいものも買えないし住んでるところも東京の真ん中からは程遠いし美味しいものもたまにしか食べれないんだから、なるべく肉体くらいは自分の欲望に正直でいたいよ)って思える(それが良いことだとはさすがに思ってないけど)数少ない貴重な場所だった。
その夜も、なんとなく気分が疲れていて、この先どうやって生きていけばいいのかわからなくて途方に暮れていること以外は、いつもとまったく変わらなかった。4杯目のジャスミンハイを飲み終わったら、またいつものように45分くらい歩いて、残りの15分だけ、金にするとだいたい2400円分だけタクシーに乗って帰ろうと決める。そして4杯目のジャスミンハイに口をつけたところだった。路面に面しているこの店の、入り口と外のちょうど境目あたりに、若く見えるけれど、おそらく40代後半~50代半ばくらいの、手入れの行き届いたウェットな金髪の、真っ黒なイケてるドレスを着た女性が立っているのが見える。ジャスミンハイのコップが入っているグラスを口につけながら、すぐに飲んでしまって手持ちぶさたになるのがもったいなくて、酒を飲まないで液体を下唇につける。溶けた氷のひやっとした冷たさが、夏の終わりの、ときどき夏がひょこっと顔をだす熱帯夜ポケットみたいな今夜の天気にすごくお似合いで、気持ちがいい。なんて思いながらその女性をぼんやりと見つめていると、アタシの視線に気づいたのか、驚くほどゆっくりとした様子でこちらを振り返って、アタシを見つめ返してきた。彼女の動きは、まるで最初からアタシに見られることを知っているかのような、木曜日深夜2時48分、その空間のななめ後ろを完璧な様子で振り返ることがあらかじめ決定されていたかのような、そんな100パーセントの動作だった。アタシはなんだか見とれてしまって、そして彼女の整っているんだけどどこか不安定な、丁寧に化粧が施されたその顔をまじまじと見つめていると、その女性が、さっきの完璧な振り返りの動作とは程遠い、酔っているのかフラフラとした足取りで突然こっちに向かって歩いて話しかけてきた。
「ねえ、知ってる? 赤ちゃんの泣き声ってラの音らしいよ」「え?」「だからあ、ドレミファソラシドの、ラの音」「はあ」「オーケストラのチューニングの音も、ラの音なのよ」「……お姉さんは、音楽やってるんですか?」「なによ突然、やってるわけないじゃない」「はあ、すいません」「今日、夜の風がすごくきもちいよ。中じゃなくて外のテラスで飲めば」。そして彼女はアタシの持っていた、大切にちびちびと飲んでいたジャスミンハイを当たり前のように奪って、ごくごくと一気飲みした。「こんな氷の溶けた酒飲んでると縁起悪いよ。おごるから」。
そう言うとバーカウンターまで行って、ジャスミンハイ2杯とテキーラのショットを2杯買って、チェイサーにジャスミンハイね、とアタシに両方の酒を押し付けてきた。くっとテキーラをふたりで飲んで、お礼を言って、ジャスミンハイを持って外のテラス席に出る。室内から漏れる四つ打ちの音楽はまるで現実じゃないみたいで、夜風の気持ちよさだけがこの世の真実みたい。するとそこにたぶんアタシと同い年かちょっと上くらいの、女物のカバンを持たされている20代前半か半ばくらいの男の子がやってきて、酒をおごってくれた姉さんに何かを耳打ちをしたあとにカバンを彼女の肩にかけていた。お姉さんは少し不機嫌になったあとに、その男の子の腕に手を絡めてアタシに言う。「この子、中国から来た留学生なのよ、まだ若くて、かわいいでしょ。彼氏なの」。アタシは酔っ払っているせいか、はあ、という情けない反応しかできなかった。中国人の若い男は、おどおどとしていて、かっこいいとか可愛いとかそうゆうのからは遠くて、この場にいるのもちょっと不自然なくらいだった。「カノジョ、カワイイオトナ、アト、セクシー。ボク、ダイガクアシタアリマス、カエリマス」と急に大きすぎる声を出して、はあどうも、とアタシはまたぬるい返事をする。目の前のお姉さんは男に1万円札を渡してキスをして、男は無反応にお姉さんの発色のいいピンク色の口紅をぬぐって、そのあと一瞬ニカっと笑顔になって、帰って行った。なんだか時代錯誤だな、バブルってこんな感じだったのかな、とか思いながら、外でまったく知らないお姉さんと二人きりになって、会話もとくになく、都会のやるせない空を(でも夜風はいつだって何度だってきもちい)ひとりで仰ぐ。
少しすると、お姉さんはそこにいた知り合いらしき人たちのところへ行って楽しそうに会話したり、音楽に乗せて身体を揺らしていた。アタシは外のテラスが思いのほか調子よくて、禁煙していたはずのマルボロライトに(2週間くらいバッグの底に眠っていたから箱はもうぐちゃぐちゃになってる)火をつける。もらったジャスミンハイも飲み終わって、帰ろうと店内にグラスを返しに行く。するとだいぶ酔ったお姉さんに肩をつかまれて、「ねえねえふたりで一杯飲みにいかない?」と誘われた。本当はもう帰りたかったけど、アタシもだいぶ酔っていたから認識能力が低くなっていて、「あー、、、いいですね」とか曖昧な返事をしてしまう。さっき彼女が完璧な動作でアタシのほうを振り向いたことも、一瞬だけ脳裏によぎる。そして彼女に肩をつかまれたまま店を出てタクシーをつかまえる。さっきいた飲み屋から5分ほど走ったあたりでタクシーがおもむろにマンションの前に止まって、一瞬ぎょっと冷静になった。もしかしてこれ誰かの家なんじゃない、あれ飲みに行くんじゃなかったっけ、やばいところに来てしまったかも、ここだと場所は広尾あたりかな、と3秒くらいだけがんばって脳みそをフル回転してみるが、あらゆることが面倒くさくて、なすがままになれ、と、ぎゅっと目をつむり、お姉さんについてそのマンションに入る。
乱行パーティーとかひょっとすると殺人とか起きてるんじゃないだろうかと思うようなピカピカのマンションのエントランスを通って16階にある部屋をお姉さんが開けると、そこは意外と莫大な広さではなく2LDK(それでも広いか)ほどの、生活感のある部屋だった。「散らかっていてごめんねー」とフラフラのお姉さんはアタシに言うと、ウイスキーをどぼどぼコップに注いで、「ビールも冷蔵庫にあるから勝手に飲んでね」と言いながらアタシにコップを渡してくれる。お姉さんはというと酒を飲まないで、なにやらセクシーなランジェリーっていうのかな、そんな感じのパジャマに着替えて、水素水を飲んでいた。もうお姉さんっていう年齢じゃなくてオバさん、っていう年齢なのだろうけど、オバさんっていう単語が当てはまらないくらいきっちり鍛えられて手入れの行き届いている身体は、皺やたるみはあるものの、純粋に美しい、とアタシは思った。
家は思いのほか簡素で座る場所がなく、自然とふたりでベッドに座っていると、初めて彼女を見たときみたいに、お姉さんはまた完璧な動作でゆらりと横になって、小さい声でおいで、と言う。誘われているのかな、と、少し緊張しながらグラスをベッドサイドに静かに置いて、アタシも横になる。お姉さんは、アタシの手をぎゅっと握る。距離が近くて、酒と香水の混ざったツンとする年齢を重ねた女の匂いがして、どこを見ればいいかわからずに天井を見上げる。もしああゆう場所で出会った相手が男の人だったら、セックスをしてもいいかなって思う時以外はこうゆう流れで家になんて入らないのにな、とか、見当違いのことが頭の中でぐるぐる巡っていたら、隣から、すー、すー、と静かな寝息が聞こえた。寝たふりだったらどうしよう、と思ったけど、本当に寝ているみたいで、アタシは複雑な気持ちになりながらも、少しだけ安心した。自分の左手はぎゅっと彼女の手に握り締められていて、繋がれたままの手はじんじんと熱を持ちはじめていた。そしてアタシは腹筋をするみたいに身体を少しだけ持ち上げて、彼女のファンデーションがよれてちょっとテカテカになっているおでこにキスをした。母くらいの年齢の人(でもよく知らない人)とこうして手を繋いで眠っていると、なんだかいろんなことからアタシは守られているな、無敵かもしれないって言葉がふと頭によぎり、気づいたら眠っていた。
目が覚めたとき、もう彼女は隣にいなくて、オートロックだから出たいときに家を出てね、という置き手紙に連絡先が添えたものがあった。それから2週間後くらいにお姉さんとまた飲む約束をして、アタシたちは約束通りちゃんと飲みに行った。こんなに楽しくなるなんて予想していなかったけど、あまりにもふたりでヘラヘラ遊ぶのが楽しくて、太陽が出るまで、行くところまで行くほど酒を飲んで、ほとんどヘロヘロのまま二人でまた彼女の家に戻った。その夜、アタシはお姉さんの謎を解明したくて(というとかっこいいけど、ただたんに、もっと知りたいという気持ちを抑えられなくて)彼女の綺麗なランジェリーの下に手を伸ばすと、「やめてよー」と笑って、アタシのほっぺにキスをしてくれた。そして彼女の身体に置かれて宙に浮かんでしまったアタシの手をお姉さんは両手で包んで、アタシたちはまた手を握り合ったまま眠った。そんな夜を2回過ごした。いつまでも彼女の謎は解明できなかった。なんでアタシに大量にお酒をおごってくれるのか(どうやら身体目的ではないらしい)なんでこんな馬鹿みたいに朝まで飲むのか(アタシ以外の人ともこうしてるのかな)なんでもう大人なのに、子供みたいにわがままで臆病で、そしてどこまでも孤独そうなんだろう。(アタシといる時に携帯なんて一切見ていないのに、アタシがメール送ると返信は超早いし、一体なんだなんだ)彼女はあまりにもよくしゃべるのに、その内容はいつも彼女のプライベートから遠い、例えば宇宙とか自然とか世界とか、壮大な話ばかりで、彼女がどんな人生を歩んできて、どんな仕事をしていて、とか、そうゆうことはまったくの謎だった。でも時折さみしそうにうつむいて黙り込んでいて、そこもまた愛せる、と思った。ただ、彼女のパワーは圧倒的にすごくて、会うと、なんだか疲労困憊してしまうのも事実だった。緊張する相手との飲み会なんて子供だましだったのねって思ってしまうくらい、楽しいけれど緊張と疲労に襲われて、いつも彼女と朝まで飲んだ翌日は、どっと疲れて1日が使い物にならなくなってしまうほどだった。
それからまた何度か彼女と会ったけれど、最後に会った日、アタシが、「さすがに今夜は終電で帰りますねー」と言って朝まで飲むことをやんわり拒否して彼女の家に行かなかった日、その日を境に、なんとなく向こうからの連絡も少なくなって、日々のバタバタに紛れて、アタシたちがかつて親密に命をかけて遊び倒したことなんて嘘みたいな距離感になってしまった。そして、気づいたころには一切連絡を取らなくなっていた。共通の友人も知らなかったし、彼女の家にも泥酔しながらタクシーで4回行っただけだから、今となっては彼女とアタシは、出会う前とまったく変わらない完全に別々の世界を歩んでいた。それがさみしかった。アタシは相変わらず、この先どうやって生きていけばいいのかわからなくて、途方にくれていた。生きることなんてしんどいことばかりでうっかり自暴自棄になってしまいそうだけど、お姉さんと遊んでいたときの自暴自棄は、ふたりで一緒だから、なんだか守られている気がしていたよ。だって、死ぬほど酒を飲んで、一緒に手を繋いでふらふら赤信号の交差点を走り抜けて車にひかれそうになったときも、アタシたちは死ななかったから。でも正直、本当に生きててよかった。あんなことは二度としない。生きるのはしんどいけど。そしてまた、途方にくれる。お姉さんはまるで、違う世界から突然やって来て、突然去っていった、宇宙人みたいな女だったなと思った。よく宇宙の話してたし。あなたとはなんだかチューニングが合うね、とか言って変なポーズしながらケラケラ笑っていたし。
きっともう彼女とは会わないだろう、自分から連絡を取る気も起きないけれど、それでも時折思い出してしまうよ。都会の空に浮かぶ16階の窓からは車の通る大通りが見下ろせて、かわいい透け透けのランジェリー、酒と香水と年齢を重ねた女の息の匂い、アタシの母よりもほんの数年だけ若いかひょっとしたら同じくらいかの、誰よりもパワフルで、謎につつまれていて、どこまでも寂しくて、おしゃれで、美しくいることに時間を使っていて、それでいてアタシと一緒にまるで子供みたいにはしゃいで泥酔して、手をつないで数回だけ一緒にすやすや眠ったあの女性のことを。時折あまりにも疲れ果てて生きてゆくことを諦めてしまいそうだし、何をしてもひんやりした気持ちでいることが大半だけど、自分よりもいくぶんか年上の、あの女もなんとか人生を生き抜けてきたんだもんなあ、と思うと、もう少しだけ踏ん張れるような気持ちになる。