<ごはんできたよってかあさんの声がなつかしい>
矢野顕子の“ごはんができたよ”を聴くと
10歳の冬のわたしが顔をだす
わたしが10歳の頃の母の年齢は
とうに越えてしまった
姉妹は4人、わたしは3人の妹たちのお姉さん
実家は自営業で古くからお商売をしていたので
当時の母は朝から真夜中まで働きものだった、
それでも朝、昼、夕、と家族のごはんはいつも母がこしらえてくれていた
なんでも料理上手で研究熱心な母なので、
ごはんはいつもどれもこれも深みがあり、
透きとおったお出汁さえおいしくて、
母の味は何か、と訊かれると品数多く並ぶ食卓からは決めきれない
ほかほか、できたてのあたたかいごはんをいつも食べていた
わたしたちは並んで、ときに向かいあって
いまだからうちあけると、母の味でできあがった舌には
忙しくてお夕飯を用意できなかった日に運ばれる店屋物が
とくべつな味に感じられた
たとえそれが中華そばでもお好み焼きでも、
ファミリィレストランのチキンライスでも
わたし、お料理、すき
食事をつくる時間はクリエイティヴな
波がくるのでそれに乗って彼方へと
ゆくことができる
今朝も豚汁を仕込んできたところ、だ
さむく冷える晩にあたたかい汁ものはとくべつ沁み入る
「ねぇねぇ なに食べたい?」とお腹の
あかちゃんへむけて問いかける
冬うまれのあかちゃんがお腹のなかで
「さむいさむい」とならないように、
ただの気やすめかもしれないけれど、
旬の食べものやあたたかい食べものを
摂ってみる
母もわたしがうまれるひと月前まで
働いてた、と聞いた
来年の1月に誕生日をむかえるあかちゃんへ
わたしも母と同様、
12月からお仕事は、いったん休憩するね
で、でででで、できれば、できれば、
できれば続ける、という、意思はある、
けれど……
わたしの分身のようなこのお店に
育児とともに100%の愛は注げるだろうか、どうだろうか?
それは果た? せる? のだろうか、?、てんてんてん
りょう? りつう?
日々、転がるように過ぎてゆく
いまのわたしができることは
目のまえに準備されている出来事をとにかく精一杯やること、
この手のなかにおさまるファン(不安)タジィーを歓迎し、更新し、
そしてあたらしくつくってゆくこと
あしたの約束さえ守れなかったわたしが
これから一生の約束を交わしたパートナーとおなじ方向をむいている
あかちゃんがこのお腹のなかにいる季節を、この時間を、
ことばでなんと表現すればよいのかわからない
ことばを越えた場所にあるまったくことばでは説明できない感情が
どんどん溢れでる、なんともいえない透明な時間を過ごしている
ああ きょうも夕日が背中をおしてくれる
じぶんが納得して生きてゆくことが、
それだけが未来へ繋がること、光、だと
信じてる
だいじょうぶだいじょうぶ
すべてはうまくいっている