豚もおだてりゃ木に登ると言いますが、人は恋をすると木に登るんですよね。皆さんにも経験がありませんか? 自分ひとりで生きていると、基本的に自分の好きなものを選び、自分の好きなことをするので、なかなか自分の枠組みの外に出ることってありませんよね。ところが恋は一種の狂気の沙汰なので、相手に誘われるまま普段自分が生きている地平から自然と枠組みの外側へ連れ出されてしまう、それが「木登り」です。
私は女子高生時代、野球部のマッチョの先輩と付き合っていたのですが、私に恋した先輩が何をしたかというと、油絵を描きました。マッチョも恋すりゃ絵筆を取るんですね。勿論絵が好きなマッチョもいるであろうということは想像できますが、まったくそういうタイプでなかった先輩がそういった言わば暴挙に出たことは驚きでした。恋は怖い。おお怖い、恋は怖い。これは饅頭怖いではないです。「アートに縁のなかった野球部のマッチョが油絵を描く」というのはまだ狂気として受け取りやすいですが、多くの場合、狂気はもっとマイルドに優しさとして現れるので、目の前に差し出されているそれが正気なのか・狂気なのか判別するのが非常に難しい。
そもそも「恋は盲目」という言葉の通り、受け取る側も恋していれば相手と同様の狂気の只中にいるわけで、恋仲にある人間同士が互いを正しく認識できるはずがない。盲目の人間が普段登らない木に登ってはしゃぐ、見守っている人間もまた盲目で、こちらもまた同様に木に登っている。恋とはなんて危なっかしいことなんだろう、悲劇が起きるのも当然である。
だからと言って「木登り」を否定するわけにもいかない。それは自分ひとりでは見ることのなかった新しい景色を目にするチャンスだし、安定して完結した自分の世界の外に出るためのパワーだ。他者と出会って、触れて、この上ない喜びを感じて、無茶苦茶に引き摺り回されて、理解できなくて、絶望して、混乱して、のたうちまわって、自分が自分でなくなるような経験をすること。こんなこと、恋でもなかったら中々する機会がない。かなりエネルギーが必要だし、正直滅茶苦茶しんどい。しかも終わってしまえばその人と過ごした時間や交わした言葉を思い出したくないほど辛いものになることもしばしばで、本当に「あれは一体何だったんだろう」と呆然とするばかりだ。もはや天災の類である。
恋が「他者と出会って・自分の外に出る」素晴らしい経験である一方で、それを経験したところで自分自身が成長するわけでもなく、毎回記憶を抹消したくなる経験にもなり得るのだとしたら、その営みに一体どんな意味があるんだろう。木に登って新しい風景を見て感動したとして、それで終わってしまったらあまりにも悲しくないだろうか? 恋をただの狂気で終わらせないためにはどうしたらいいのだろう。
これは現時点での私の仮説でしかないけれど、木に登ることが恋だとしたら、場所はどこでも構わないけど、その人と一緒にいつづけようとすることが愛だと思う。木の上でそのまま暮らしたっていいし(ツリーハウスはいつだって憧れだ)、木を切り倒してログハウスを作ったっていいよ。薪にして暖炉にくべて一緒に暖まったっていい。別にタワーマンションに引っ越したっていいよ、ただ、どうしたら一緒に居られるか考えようよ。だってせっかく苦労して木に登って見た風景を、一緒に思い出せる人がいなくなるのは本当に寂しいし、忘れてしまうということが私は一番悲しいから。愛があるから一緒にいるんではなくて、一緒にいようとするその試み自体が愛なんじゃないかと思うんだよ。
わたしたちにとってともにいるということは、一人でいるときと同じように自由で、大勢の人といるときのように楽しいことだ。一日中二人で語り合っているが、それは考えをより活発なものにして、耳に聞こえるようにすることなのだ。
シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア(下)』 (岩波文庫:p495)
じゃあどうしたら「木登り」をしなくては一緒にいられなかったような、自分ではない他者と一緒に生きられるのか? と考えたとき、私は『ジェイン・エア』のこの一節が思い浮かぶ。一人でいるときのように自由で、大勢の人といるときのように楽しいという、矛盾するような状態を保つための土台として、対話のできる関係性を保証することが必要なのではないかと思う。自分と違う地平にもともと住んでいた人と一緒にいるためには、とにかくひたすら語り合うしか術はないんじゃないだろうか。
彼は、何かを語ったのではなくて、語るということの拡がりを体験したんだと思う。そして、そうした体験こそが本当に知的なことであるはずです。しかし、柄谷さん、僕にいわせると、その本当に知的なこととは愛なんですよ。推移しつつあることへの配慮を共有するというのは、僕の言葉でいえば愛なんだ。
柄谷行人、蓮實重彦「闘争のエチカ」『柄谷行人蓮實重彦全対話』(講談社文芸文庫:p496)
語り合うということは本当に楽しい。自分の言ったことが理解されなくて歯痒く思っても、「むしろ簡単にわかるなんて言われる方が嫌でしょう」と言いながら話すことをやめないでいてくれる人が私は好きだ。話しているうちに私が言いたかったことから彼の解釈・彼の言いたいことへと逸れていって、滑るように意図していた地点から全然違う地点へと辿り着いて「こんなはずじゃなかったんだけどなぁ」と呆れながら笑ってしまう、それこそ私の望むところだ。
私とあなたの対話において、あなたは「私の欲望と見なしたもの」を配慮しつつことばを調整し、私はあなたのことばのうちに私自身の欲望を発見する。けれども、それは「私の欲望そのもの」ではない。なぜなら、私はそれが「私の欲望」であることを、あなたのことばを通じて教えてもらったからである。
内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(文春文庫:p63)
「推移しつつあることへの配慮を共有する」というのはなんだか回りくどく、わかりづらいけれど、「語るということの拡がり」を体験するためには相手への繊細な配慮が必要なのだ。ただしその配慮というのはあくまで「自分が推察した、相手が欲していると考えられるもの」なので、それは相手の「まさに欲しているもの」そのものにはなり得ないということをお互いに承知している必要がある。
つまり配慮とは「私」から「あなた」への、「あなた」から「私」への贈り物のようなもので、誤解かもしれない贈り物を贈ることにお互い同意することが「配慮を共有する」ことになるのかなと思う。まるで毎日がクリスマス、お誕生日、互いにギフトを贈りあう祝祭日のようだね。
誰かと出会って狂気の沙汰として木に登ることも、誰かと共に生きるために語り合いつづけることも、どちらも意図せず「自分」という枠組みから外に誘い出されてしまうことだと思う。だからこそ自分の思う通りになんて絶対にいかないし、お互いに理解しあうことだって厳密にはできない。だって「理解」するということは自分の既存の枠組み内に相手を収めてしまうことだから。完全に「理解」してしまったらそこで対話は終わってしまうから、誤解を恐れずにいよう。私たちは「誤解」しかできないということを忘れずに、誠実に目の前のわからなさに驚いて、戸惑って、手を取り合ってお互いに知らないところへ辿り着きたいと思う。