34歳、既婚、一児の母。ねえ、あなたってどんな人なのと聞かれて、いちばんニュートラルな単語であらわすのならこうなるのかな、今のわたし。でも、わたしはいまだに結婚しているという実感が湧かないし、母親であるという自覚もあまりない。そしてそれと同じくらい、わたしはずっとむかしから松樹(夫)といて、オンちゃん(子)といて、生まれてこのかた34歳にしかなったことがない、みたいに生きている。たぶん、わたしは時間ってものとどんどん親しくなっているんだと思う。それは親しくなるほどにかたちを変え(もはやいっぽんの線ではない!)、ことあるごとに姿を消してしまう。時間に頼れなくなったわたしはただ、この瞬間、瞬間を生きるしかないみたいで、だから今のわたしにはどうやら思い出というものがない。そんなわたしに、松樹との「運命的な出会い」についてうまく書くことはできるんだろうか?
はじめからずっといたみたいな人とのはじめての出会い、はじめての言葉、笑顔、抱擁、喧嘩……そうした瞬間を思い出そうとしてみても、結局は自分のしっぽを猫になったわたしがぐるぐると追い続けるみたいで、どうにもこうにもうまくいかない。それは俗にいう運命の分かれ目、パラレルワールドの分岐点。無から有へ、量子がゆらいで宇宙が拡がる、そんなはじまりの場所に戻るためには、やっぱり物語の助けが必要なのかもしれない。だからわたしは書いてみる。あの時たしかにそこにいた、「あなた」のお話として。ぜんぜん知らない懐かしい場所を、まるではじめて思い出すみたいに。
2010年の大晦日前夜、あなたは京急の快特電車に乗っていた。石盤みたいにつめたい車窓が、ひとしきり泣いたあとで輪郭のぶれたあなたの顔を、やけにくっきりと映しだしていた。あなたは27歳で、未婚で、20歳以上も歳の離れた異国の男性とつきあっていた。少なくともつきあっているとあなたは思っていたし、相手だってそうだった。でもあなたもその人も、つきあうという言葉をそれぞれロマンティックに誤訳したまま、春から夏、秋を経てここまでだらだらと来てしまっていた。だからはじめて本気で向き合ってみると、それまでの魔法はぜんぶ消え、空っぽの言葉だけがあとに残った。言葉の殻、皮。脱ぎ捨てられたあとの言葉があなたをつらくさせた。うしろの席には、中学生らしい男子が二人並んで座っている。サッカーの試合の帰りだろうか、丈の長いベンチコートを着て、足元にはぴかぴか光るエナメルのバッグが二つ投げ出されている。京急川崎で、横浜で、上大岡で人が降りたあとでは、車両にはあなたと彼ら二人しかいなくなった。iPhoneの電源が落ち、あなたはため息をつきながらイヤフォンを外した。そして二人の会話を聞いたのだった。
「なあ、夜に電車乗るって、おもしろいよな」「そう?」「うん、なんだか、まだどこにも行ったことない場所に行くって感じがする。それに、ここには人がぜんぜんいない」「ああ、そうか。そうだね。俺らのこと知ってる人なんて誰もいない。そして俺たちはどこでもない場所に向かってる。俺たちだけで、電車のなかで。なんだか永遠みたいだ」
この会話を、あなたは聞いたのだった。「ほんとうに」聞いたのだ。ひどく打ちひしがれ、頭に濡れたふとんをかぶったみたいな気分でぼんやりと、これが世界の終わりなのか、なんて考えながら、車窓に指先で IS THAT IT? などと書きつけていたくせに、あなたはこの会話を聞くことができたのだった。そしてあなたは「彼」のことを思い出した。出会ってほどない、あなたとおなじ27歳のあの彼のことを。二度目に会った夜、居酒屋で二人、串焼きを食べながら彼が言ったことを。
「この笑顔を見てよ」と彼は言って笑った。この笑顔がどこから来たのか知っている? ねえ、これはブラジルから来たんだ。今すぐにってわけじゃない。時間ならずいぶんかかった。はじまりはこうだった。ブラジルのどこか、田舎の町で、気のいい男が飼い犬を抱き上げて大きく笑った。ぐうぜん通りかかったおばさんがそれを見ていた。おばさんはアメリカにいる姉に電話をかけた時、その犬を抱えた男の話をした。すごくいい光景だったから思わず伝えたくなったんだ。姉は遠く離れた故郷のことを思って、電話越しににっこりと微笑んだ。部屋には彼女の息子がいて、電話で話す母親の顔をじっと見つめていた。彼は、母親の幸せそうな顔を見て明るい気持ちになった。あんまりにも明るい気持ちだったから、翌朝、学校に行く道で会った人すべてに笑顔で挨拶した。その笑顔を向けられた人がまたどこかで誰かににっこり笑って、そのまた誰かも微笑んで、その微笑みがまわりまわってここまで来たんだよ。「今、きみの目の前にある僕の笑顔は、だからブラジルから来たんだ。そういうことってたぶんある。きっとあるんだ、すごいよね。」そうだね、たぶんあるね、ほんとうにすごいね。そう言ってあなたも笑った、あの二度目の夜。
電車のなかの男の子たちはいつの間にか会話をやめていた。彼らの手のなかには今ではポータブルのヴィデオゲーム。頭と頭を突きあわせながら互いの画面を見つめている。電車は次の駅に到着し、ドアから乾いた風が吹きこんでくる。あなたは座席のすき間から彼らを見た。お願い、とあなたは思った。お願いだから、まだ行かないで。きみたちがいるとここはとても安心。だからまだ行かないで。黒く光る窓のなか、ぶれた顔のその先にはキャベツ畑が広がっていた。終点三崎口駅。またここに戻ってきた、とあなたは思った。
たとえば34歳になって、結婚して、子どもができたとして、それでもわたしは今のわたしのまま、変わらずにこういう気持ちを感じることなんてできるんだろうか。車で迎えに来てくれた母親になぐさめられながら、27歳のあなたはまたぜんぜん別の未来を思っていた。こたえはでも、きっとノーだ。わたしはどんどん変わっていく。今夜のことも忘れてしまうし、歳の離れたあの人とももう会わなくなる。電車で会った彼らもいずれ、中学生であることをやめ、そのうちに一緒にいることもなくなるはずだ。34歳、既婚、子のいるわたし。でも相手はいったい誰なんだろう? 27歳になったばかりのあなたは、幼稚園から高校まで12年間見つめ続けた天井をふたたび見上げて考える。壁に貼られたPJ HARVEYの切り抜きと、しみの浮いた『ヴァージン・スーサイズ』のポスター。床には古びた『NME』が積み上げられている。クローゼットはもう空っぽだ。失くすにはあまりにも惜しいくらい、うつくしいものがいつでもあった。だからあなたはしまっておくことにした。次にそれを取り出した時には、もう今のままではないことはわかっていたけれど。ポケットの奥底に眠る思い出。でも、それを「ほんとうに」思い出すためには、あたらしいお話をつくらなくちゃならない。
大晦日の前夜、電車のなかの中学生。まるで銀河鉄道の夜に出てくるみたいな二人。彼らがあそこにいるだけで、車内はとてもいい場所になった。あれはきっと魔法じゃない。友情でもないしロマンスでもない。もっと単純な、言葉になる以前の単純な何か。あたらしくつくられたお話のなかでは、あの二人が「わたしたち」に重なっていく。わたしとあなた。出会ったばかりの、わたしとおなじ歳の笑顔のあなた。わたしたちだってそうだ。わたしたちもあの二人みたいに、一緒にいるときっといい。わたしにとっても、あなたにとっても、一緒にいるとずっといい。一人きりでいるよりも、他の誰かといるよりも。世界にしたってきっとそう。わたしたちが一緒にいると、それだけでここはいい場所になる。特別なことなんて何もない。ただ、いるだけで、じゅうぶんなんだね。つめたくて透明な窓ガラスに二人、わたしとあなたが並んで映る。青白く発光して、まるで生きている人たちみたいに。「ねえ、僕たち二人で、どこまでもいこうねえ。」
できすぎた話に思われるだろうか? でも物語はここでは終わらない。というか、それは一生終わらない。「話したことは一秒後にはすべて、ものがたりになるのよ」(『塩一トンの読書』/須賀敦子)。そう、そのとおり。わたしたちが生きてしまう今は、一秒ごとに物語になるから。今では乗客が一人増え、わたしたちは三人で生きている。まるではじめからそうであるように、そしてまったくはじめてのような気持ちで、三人で。わたしがお母さんでいる時もあれば、松樹がわたしのお母さんみたいな日だってある。夜、寝ているオンちゃんの頬に鼻先を擦りつけてみれば、なんだかとても安心で、彼女がわたしのお母さんになる。そんなふうに三人でいる。ぐるぐると役割を交換しながら、お話を先へと進めている。いつか彼女がまた別の電車に乗り込み、あたらしい物語を書きはじめるまで。
34歳、既婚、一児の母。この単語から、何が連想できるだろう? 物語は、重ね続けた瞬間の数だけ存在する。そしてこれを読んでいるあなたの数だけ。パラレルワールドの分岐点。すべてのはじまりの一歩手前。いつだって誰だって戻って行ける。