私達には毎日、やらなきゃいけないタスクが山ほどある。
とりあえず羅列してみる。
あんまり気に食わないあの子の動向をInstagramのストーリーでチェックしたり、
自分が可愛く写ってる写真だけを更にレタッチしてFacebookに載せたり、
恋人からプレゼントされるのは到底期待出来ないであろうMiuMiuの財布をフリマサイトはしごして探してみたり。
気がつけば1週間回していない洗濯機、放置したAmazonの不在票と腐ったケーキ、1週間前に買ったそこそこ高かったイヤリングはもう片方しか無くて、半身浴する意識の高さなんて無い。勿論パックも。
画面をスクロールする度に誰かのコンプレックスに出会うし、それらは大人になれば和らぐか、と言われればNOで、ひとつクリアしても理想には辿り着けないしタスクは今日も終わらない。
何がコンプレックスか? って聞かれても、正直困る。コンプレックスじゃない部分の方が少ない。
顔も、性格も、体型も、物忘れの多さも、遅刻癖も、料理が苦手なことだって、全部。
唯一肯定出来ることといえば、「コンプレックスについて」のコラムの依頼が来て、まんまと仕事に活かせてるってことだけ。
「コンプレックス」について、Wikipediaで調べてみたら、何やら難しいことが書いてあったが割愛するとして、私達日本人が「コンプレックス」として認識しているのは心理学者のアドラーが提唱した「劣等コンプレックス」のことらしい。
縷縷夢兎は初期の頃、「少女コンプレックス」をコンセプトにしていたのだけど、そのコンプレックスとは、分析心理学上のフェティシズムのことだ。ナボコフの小説『ロリータ』で語られていたフェティッシュな魅力を持った少女を指す「ニンフェット」は縷縷夢兎の根源にあるテーマで、私自身が少女をフェティッシュに表現するという禁忌を侵す行為に背徳感を感じていたというのもある。
しかし昔からそういうものが好きだったか? と言われると違う。
少女コンプレックスを強く意識し始めたのは20歳を超えてからで、通り過ぎてしまった少女像になりたかった自分を重ね合わせて、museと呼ぶようになったのかもしれない。
老いから逃げて一生少女でありたい、物語の主人公のようにワンピースを纏いたい、という現実逃避が「少女コンプレックス」という表現の根源へ繋がっているのだと思う。
アイドルが青春を切り売りして、ファンの青春を延長しているみたいなことで、
過去に諦めた夢をmuseに託して少女性の延長を試みて、擬似成功体験を得ているのだけど、我ながら甚だ迷惑な話だと思う。
映画監督のエヴァ・イオネスコが、母である写真家イリナ・イオネスコの被写体として、幼い頃からヌードを含むモデルとなった経験を基に葛藤していく話を映画『ヴィオレッタ』で描いて物議を醸したことがあったけれど、私はあの映画を観て、自分とイリナ・イオネスコの立場を重ねて「全く人ごとじゃないなぁ」と冷や汗が出たのを覚えている。
自分自身の「劣等コンプレックス」についてもっと話すと、
10代のうちに読んだ本が数える程しかないことが、アラサーの私の危機的コンプレックスに繋がっていることを言っておく。
唯一熟読したのは、鈴木いづみのエッセイと、矢沢あいの漫画と小悪魔になるための本と『FRUiTS』。
文字と言えば携帯小説とか会ったことのない女の子のblogばかり読んで、文学的なものに殆ど触れてこなかった。
その代わりに椎名林檎と安藤裕子の歌詞カードを死ぬほど読んだし、ソフィア・コッポラとヤン・シュヴァンクマイエルと岩井俊二と庵野秀明に人格を形成させられたけど。
20歳を超えてから、岡崎京子を読み漁り、
25歳を超えてからレナ・ダナムに出逢い、
似たような煮え切らない世代が沢山いることを実感してコンプレックスとの対峙方法を少し学んで、
『ハーブ&ドロシー』とか『キューティー&ボクサー』を観て、何かが足りなくても愛する人と好きなことだけ信じて生きていく人生こそ素晴らしい、と目の前のコンプレックスを肯定されたりもした。
幼少期の熱狂は大人になった時、糧にもなるし恥にもなる。
小学生の頃に浜崎あゆみの影響で『Popteen』にハマったお陰で、好きな服を着ることを肯定されてしまい、私の人生は良くも悪くも始まってしまったと思う。
19歳の時、アンティークの生成りのワンピースにヘッドドレスをして地元に帰省したら、「TPOって知ってる?」って同級生に馬鹿にされたし、
21歳の時、ツインテールばかりしていたら「東はアイドルになりたいらしい」というデマが回ったし、
25歳の時、ミニスカートで撮影現場に行ったら、殆ど意見を聞いて貰えなくて泣いた(勿論服装以外の原因もあるけど)。
やっぱり社会で上手く生きていくためには、そんなに好きじゃない地味な服でも着なきゃいけないんだなぁって、学んだ(やっぱり服装以外の原因もあるけど)。
世渡りが下手だなぁと思い知らされる度に、上手く立ち回れる誰かにコンプレックスを感じてしまう癖は多分一生治らない。でも、自分にとって「少女コンプレックス」「劣等コンプレックス」という二重の意味を持つ「コンプレックス」という言葉は、二律背反な世界を提唱する私自身の全ての表現におけるコンセプトと言っても過言では無いかもしれない。
私にとってはコンプレックスを「思春期特有のソレら」では片付けられないのだけど、コンプレックスが消えないということはつまり、新しい壁に出逢い続けてるってことだから、良しとする。
コンプレックスのしがらみから解放されるには、生活を超丁寧に営んで、部屋を掃除したりマニキュアを塗り直したりして、小さい自己肯定を積み重ねていくことが解決策だし、一番は好きな人とぬいぐるみと二度寝することに限る。
2018年、隣国で戦争が起きそうでも、遠くの国で若者が大量に自殺しても、移民が職にも食にもありつけなくても私達は、やっぱり自分個人のコンプレックスという小さい宇宙の中だけがリアルで、凡ミスで死にたくなったり、私を傷付けたあいつより幸せになるしかない! って決意したり、相変わらず毎日大変で、
泣いたり悩んだりぼんやりしたりソファで寝落ちしたり、してしまうのである。