私は小学5年生の頃アミューズという芸能事務所に入って、
テレビや舞台に出て、大学を出ても就職せず、
スターではない方の、ありふれた芸能人になった。
次の文章も昨年の秋頃、舞台のオーディションのために書いたものだった。
テーマは「大切にしているもの」である。
ラッキーなことに書類審査は通った。しかし、実技であっけなく落ちた。
手元には先々まで真っ白なスケジュールと、大切な、コンプレックスまみれの文章が残った。
「大切にしているもの」
友情であることはきっとそうなんだけれど、わたしが彼女に持っている気持ちはそれだけじゃない。しかしとにかく彼女のことは大切に思っている。
Hとの約束は断らない、それが夜中の3時半に六本木へ来いというものであっても。
夜中の3時に池袋駅のバス停から発車された大型バスの乗客はわたしだけだった。
窓の外の街も立ちながら眠っている人か、今にも寝そうなくらい酔っ払っている人がぽつらぽつらといる程度である。
そもそも今回の約束はだいぶ前から決めていたものなのに、集合時間についてはお互い当日の夜まで聞こうとしなかった。Hのバイトが終わるのは深夜2時半で、六本木アートナイトの会場に着くのは3時半になるという。
がっくりきた、なんでそんな深夜に出かけなきゃいけないの。けれどもわたしはいそいそと支度をして六本木へ行って、着いてからも10分くらいむすっとしながらHを待った。
Hは私よりもっとむすっとした、能面のような無表情で現れた。
Hはすごい。東京藝術大学に入るために四浪しているが、浪人の原因がすごい。
受験の願書を提出し忘れたり、学科試験のテスト科目を受け切らずに途中でふらっと家に帰ってしまったり、最終試験で使う絵の具を全て電車の中に置き忘れたりする。
小学6年生の頃に彼女が描いていた6年1組の大人気連載ギャグ漫画「マジカル・バナナ」の登場人物のようである。
でも彼女はきっちり受かった。
絵の具を電車に全部忘れて、試験会場で全部買って、描いた絵で、受かった。
Hの合格発表の日、わたしは池袋にある呼吸器科の待合室にいた。
電話で合格を聞いた時にあまりに、あまりに嬉しくて外で大声で叫んで泣いた。そのまま親にも電話をかけて、上野へ行ってHと合格発表のパネルの写真を撮った。
ほんとうに嬉しかった。すごい。ほんとうにすごい。
Hは間違いなく唯一無二で、才能と行動力があって、彼女はこれから間違いなくたくさんの人に愛されたり羨まれたりするだろう。けれど、この世界の中でわたしほど強く彼女のことを愛し、応援して、羨ましく思う人は他にいない。
才気煥発な大学の同級生や、これからたくさんの美術館で彼女の作品を見た人も彼女の作品の面白さや本人のかっこよさにクラクラするかもしれないけれど、そういう気持ちに関していえばわたしが、一番だ。すごい、すごい、どんどんHは才能と努力で、輝いていく。
本人不在の時、友だちに彼女がどんなにすごいかということを話しているとわたしは最後いつも泣いている。今もジョナサンでこれを書きながら涙を流している。
光が強いほど影は濃い、彼女の素晴らしさのひとつひとつを大切にするほど私の凡庸さが浮き彫りになってきて、私はその度にこんな、何かを表現することはやめてしまいたいと思う。つらくて悲しいことばっかりだ。
でも、やめられないのである。つらくとも、やめたくないのである。
Hは私の出る舞台は必ず観にきてくれる。そして面白い作品には素直に喜んでくれる。
私はHにかっこいい舞台を観せたい、かっこいい彼女の創作に負けないくらいかっこいいお芝居をやっているところを観て欲しい。
いい影響があるかもしれない、そんなことは大してHに関係ないかもしれない。
(2017年10月20日)
Hは幼馴染で、もう15年以上の付き合いになる。
濃いめの顔と背格好が似ていたので、しばし人から「姉妹?」と言われた。
お互いに理屈っぽく皮肉と悪い冗談が大好きで、なんだかんだと気が合うのだけれど、しばらく一緒にいると互いにいらいらする。
Hは顎がシャープでショートカットがよく似合う、勉強家で理屈屋で超個人主義。
いつも手を動かし、宇宙のかなたから飛んできたみたいな発想と六畳一間の現実みたいなことを両輪で考えながらマッシブに生きている。
私は丸顔で、ショートカットに憧れつつも残念ながらあまりしっくりこない。
手を動かす前に同じところを8周するくらい自問自答してからでないと動けないし、週に3度はしくしくと落ち込む。
私たちはすこし似ているけど全然違う。
けれど彼女のことはとても大切だ。
私は彼女より人と話すことが得意だし、まあいいところもあると言えばある。
ただ、彼女にあって自分にないものばかりが、よく磨かれた宝石みたいにきらきら光ったり消えたりして見飽きない。
コンプレックスに目を塞がれて目の前が暗くなっているときはもっと眩しく見える。
私はHのことを「天才」だと切り離している部分があるのかもしれない。
けれど、天才はここに生まれた時から天才なんじゃなくて、自分の表現を見つけて誰よりもそれについて考え、手をたくさん動かした人に見える。Hを見ているとそう思う。
そして、表現なしでは生きてゆけない人に見える。
その人が選んだものなのか、その表現がその人を選んだのかわからないほどに、それらは一蓮托生としてかっこいい。
子供の頃から表現者になることを夢見ていると、周りにかっこいい人や本物の天才がざらにいて苦しくなったりときめいたり目まぐるしい。
オーディションにHの絵も一緒に出したいと思って、「大切にしているもの」の文章を本人に読ませて絵を描いてもらった。
それがこれだ。
土手を通って徒歩5分の距離に住んでいた私たちの、地元の桜だ。
絵の裏に「蓮華へ 私たちはあの土手の上でお互いの夢を語り合ってたころとなにも変わっていません。これからもよろしく。H」
と書いてあった。かっこいい。泣いた。
私たちはまだ全然咲いていない。
どうなるかは誰にもわからない。
けれど私と彼女は、おおむねなにも変わらず、
それぞれの手を動かし続けるのだろう。
生きてるうちにたくさんの花を咲かせられますように。
※一部内容に変更があり、記事掲載後に修正いたしました(2021年3月)。