「一番かわいくしてくれたね」
「夢だったらいいのに」なんて、フィクションの中になら出て来そうな台詞を耳にした、高く晴れた日の午後。
高い広葉樹がざわざわと、無数の手で触り合うように、陽を木漏れ日に切り刻んでいる。
私たちは皆黒い服を着て、建物の前にぞろぞろと集い、立ち尽くしたり世間話をしたりしていた。それは異様な光景だが、決してこの世では珍しいものではなく、また、当然夢の中の話でもない。
夢といえば私には、繰り返し見ている大事なやつがある。
それは例えば物心がついたばかりのころ、畳屋の二階に間借りして居たあの部屋の、窓のあたりで光に沿うようにいつまでも眠りこけた午後3時。
閉じた瞼のこちらがわまで通り抜けてくるようなちいさなちいさな粒子になって、黄色い光が、私のからだをほんの少し隙間をあけてやわらかく、包んでいるようだった。
うすく眼をひらくと、窓から射す光の中で、い草の香りを纏った埃がきらきらと舞っている。
そういうとき、私はいつか、このシーンを思い出すだろう。と気づくのだ。
そして光の中、いつもこう言われているような気がしていた。
「しあわせでいてね」
神さまがいるのだとしたら、それは私の身体の中にいるのだと思う。
私はこのときのことを、本当に安堵しているときにだけ、夢に見る。
思春期を超えても、大人になっても、変わらずに覚えているただひとつの夢だった。
覚えている限りで、最後にこの黄色い光の夢を見たのは、ロサンゼルスから2時間ほど、荒野を車で走り続けている最中のことだった。
このとき私たちは写真集を撮るためにアメリカに来ていて、すでに3日ほどの時間をともに過ごしていた。最初の2日間をメンフィスで過ごし、ロマンチックな写真はほとんど撮ってしまったという安堵から、その日は片道4時間かけて本格的な砂漠まで行こうというスケジュールになったのだ。
旅の仲間は全部で8人、ぴったりの8人乗りの白いフォード。すでにこってりと仲良くなっていた。
砂漠に向かいはじめて1時間くらいの間、わたしたちはひっきりなしに会話と音楽を楽しんでいた。宇多田ヒカル、マイケル・ジャクソン。椎名林檎、デヴィット・ボウイ。でこぼこの道で縦揺れする車、線になって通り過ぎていく茶色い土と青い空。早起きしてメイクさんが仕上げてくれた外ハネのドライな砂漠用ヘアも引き算メイクも、崩れちゃったら勿体無いけれどものすごく幸せで安心していたから横になって眠った。4列シートの真ん中の席に転がれば、逆さに空が見える。目が覚めたらきっとすてきな場所にいる。
今だから言えるけれど、このとき真後ろに座っていた人が毛布をかけてくれたこと、本当は知っていた。
ただ、眠っているのをかわいいね、なんてお母さんみたいに言われて、寝顔をオフショット用のフィルムカメラで撮られて、それから毛布をかけてもらったなんて、あまりに暖かくて恥ずかしかったものだから、眠ったふりを続けてしまったのだ。
まるで、世界の真ん中のとても明るいところで、祝福の中生まれた赤ちゃんみたいな気分だった。自分という身体の外側に、この毛布みたいに暖かくてやわらかい防御壁が何層も何層も重なっているような安堵感だった。
見られているのを、知りながら落ちる眠りの中で、いつもの大事な黄色い夢をみた。
夢は、過去のいちばんいい記憶を繰り返し上映しているようでいて、ほんとうは、未来のことを映しているのかもしれないな。そんなことを思っていた。
あのとき、私の寝顔を笑ったでしょう。と言うことのないままで、ある夜に突然、その人は死んでしまった。
私の髪の毛をへんてこにして、無断で文房具のカラーペンで私の顔にそばかすを描いて、かわいいと言ってパチパチと鳴らしていたあの両手が、もうこの世からなくなったらしいのだ。いちばんかわいくしてくれたのに。
あんなふうに、私に毛布をかけてくれた両手が、今もこの世界のどこかにあるというだけで、いつだってさわやかな愛を思い出すことができたのに。
私には、死というものがよくわからない。いつだってその正体を紐解こうと、眉間にしわを寄せ、時には空なんか見上げたりして、考えてきたつもりだったけれど、それはいつも、「正体などない」という正体を勘付かせて煙のように消えてしまうのだ。掴めない。好きな人たちよ。心根のやさしい人たちよ。どうかわたしとこの優しさに恵まれなかった世界が寂しくないように、200年くらいは生きていてください。と、誰かの光にふれるたびに息を吐くように当たり前に願っていることくらいしか、気休めにならなかった。
死んでしまったその人は、すごくたくさんの人に愛されていたヘアメイクさんだったけれど、これからこの人のことをそのすごくたくさんの人が思い出すとき、楽しかったことよりも、かわいくしてもらったことよりも、「あの人は死んでしまったな」、というところから先に思い出すかもしれないとしたら、それは少し、嫌かもしれなかった。
死んでしまった後って、夢を見たりするだろうか。
あの人は哲学書や思想書もたくさん読んでいた人だったから、死の解釈も哲学的だったりしたかもしれない。メンフィスからロスへの4時間半の飛行機の中で、わたしが格好つけてルドルフ・シュタイナーの神秘学の本を読んでいたら、隣の席からけらけらと笑った。見つかってからおよそ3時間の間、休み休みずっと笑った。私がやばいってこと、ひとめで気がつくことができるあなたがやばいって、そう思えば思うほど笑えた。
事務所の人からの連絡で彼の死を告げられたとき、わたしは、どう言ったらいいのかわからずに、なぜだか、「あの、本当は、あの人と結構仲が良かったんです、私」と口にした。それ以外私の中で確かな感触が見つからなかった。そして、私がこの人と結構仲が良くて、一緒にいた時間は少なかったけれど、一緒にいるときはいつもいつも笑っていたこと、この人が死んでしまったら、私以外誰も知らない。と、思った。
こんなふうに、そこにあった感情が、分け合った半分ずつ、命とともに地上から消えてゆくのなら、人生とは所詮夢のようなものだろう。あのよろこびは、私と、あの人が、半分ずつ持っていた夢だったのだ。
誰かが口にした「動かなくなった姿を見たらさすがに泣いてしまう」という言葉に引きずられ、お通夜の夜は家にいた。なんとなくよくわからないまま、ほんの少しこの世界の温度が寂しくなってしまったような、そんな夜の中で眠った。
ぼんやりと白い、室内か屋外かもわからない場所にその人は、首から上しかはっきりと認識できない姿で浮かんでいた。よく見えはしなかったけれど、派手好きでおしゃれな人だったから、きっと炎柄のセーターとか、フリルの山ほどついたブラウスだとかをじょうずに着こなしていたことだろう。
最近は髪を黒く染めていたようだったけれど、その夢の中では、私にとって一番記憶に残っている明るい金髪の姿だった。
そして私は、なぜだか、深い悲しみを脳の奥に感じながら、その人にお願い事をした。
アメリカで一緒に写真集を作りはじめた最初の日の朝、特別気に入っていた薔薇柄のセーターに合わせて彼は、私物の赤くてごついハートのついたヴェルサーチのネックレスをつけてくれた。男性用で鎖が長かったので、首の後ろでちょうどよく結んでくれて、そういう、誰かが何かを私にとってちょうどよい具合に調整してくれるようなことが、私の人生においてはとても珍しく、それだけで世界から大きな愛と許しをもらったかのような気持ちになって、安心していたのだった。
あの赤いハートの、ヴェルサーチのネックレス、ちょうだい。
白くぼやけた夢の中で、私はそう言っていた。
そうして、唇をぎゅっとしめて微笑むと、彼は頷いた。
目がさめると、夢じゃない、本物の朝の光の中にいた。
我ながら、なんて都合のいい夢を見たんだろう。と、思った。
私は親族でもとくべつ仲の良い友人の枠でもないから、当然遺留品をもらう権限はない。静かに黒いワンピースに着替え、家を出る。諦めがつくくらい晴れている。
私の見る夢なんて、きっと私の無意識下の妄想なのに、うれしい。
あの赤いハートのネックレス、あげてもいいよ、って顔をしていた。
私が最後に見たあの人の顔は、動かなくなった姿じゃなくて、夢の中で輝く、いつものかわいい、「しかたないな」の顔だった。
彼の撮ったアメリカでのオフショット写真には、ちょっと笑っちゃうほど気を抜いた、かわいい私が写っている。お葬式のあと、出入り口付近では、どこからか、「夢だったらいいのに」という言葉が聞こえる。
私、夢の中で会った。お互いのこと、本当にかわいいと思っていたの。それだけで良かった。