おぎゃあと生まれた。
昭和22年の春だった。
日本は敗戦し、父が戦地から帰って来たのだった。
東京の焼け野原で、父は必死に働き、弟が二人産まれた。
記憶にある限り、父はそれなりの会社に就職し、貧乏をした思い出は私にはない。
幼稚園から越境して、四谷の番町幼稚園に入園した。
父も母も教育熱心だったのだろうか? それともただの見栄っ張り?
番町小学校、麹町中学、日比谷高校、東大という進学率が特別に高い、エリートコースを歩かせたかったのだろうか? 弟たちも皆、番町小学校だった。
近所の子どもたちは皆、近くの第六小学校に通っていた。
だから、近所の子どもたちとは友達になれなかった。
母は私が5歳くらいの時に、ヴァイオリンを習わせた。
ヴァイオリンは最初に音を出すのが大変な楽器だ。
ヴァイオリンの構え方、弓の持ち方、本当にまともな音を出すのが大変な楽器なのだ。
ところが何故か、最初から私は、綺麗な音を出すことができたようだ。
そこからが間違いの始まりだ。
この子は、天才少女かもしれない。
母親の勘違いが加速した。
学校の勉強なんかそっちのけ。毎日毎日6時間ヴァイオリンを弾かされた。
1週間に1回、電車に乗って、もちろん母はべったり付き添って、音大の先生のところまで通わせた。
指をけがしてはいけないから、ドッジボール禁止、跳び箱禁止。
それなりにうまかったのだろう。まるで、幼少期、ヴァイオリンの天才少年だった、さだまさしのような人生の始まりだ。
小学校の学芸会では、いつもピアノ伴奏でソロを弾いていた。難しい曲を弾いていた。
褒められることは、そんなに悪い気はしない。
私は素直で熱心な子どもだったのかもしれない。そして、特別な。
中学校、高校は、親の転勤で仙台に行った。
修道院が経営するカトリックの学校に入れられた。めちゃくちゃ規律の厳しい学校だった。
日本人もいたが、先生の多くはフランス系カナダ人の修道女だった。
私は団塊の世代で、番町小学校はひとクラス80人もいて、それが何クラスもあったが、仙台の学校は、一学年2クラスで、生徒は70人しかいなかった。
私は、東京から来たお嬢様ということで、普通にしていても、どこか他の子より垢ぬけており、目立った。アウェイな存在だった。
だから、こっそりぐれた。
冴えない高校の男の子たちとこっそり遊んでいた。特に何をするわけでもない。ただつるんでいた。
ヴァイオリンの稽古はしていたが、思春期になった私の興味はもうヴァイオリンにはなかった。母は音大に入れようと必死だったが。
演劇部と放送部に入った。楽しかった。
学校は適当にサボった。勉強しているふりがうまかった。
でも本はよく読んだ。図書館の貸し出しは、親友と競争で。1位か2位だった。
高3になり、親をどう説得したのか覚えていないが、私は演劇科のある大学を受験し、合格した。
あの暗い、カトリックの高校ともおさらばだ。
東京の大学に通い、寮に入った。恋もした。男の子たちとも遊んだ。
授業はちっとも楽しくなかった。私の演りたかったのは、その頃流行りの前衛劇だった。
サミュエル・ベケットやフェルナンド・アラバルやジャン・ジュネだった。
早くそういう芝居がしたかった。だから、2年で大学を辞めた。舞台に立ちたかった。
この頃から、やりたいことにはまっしぐらという私の本来的な性格が目覚めたのだろう。
演劇養成所に入った。毎日が新鮮だった。1970年代、学生運動真っ盛りだった。
そういう集会に顔を出したし、初めて男と同棲した。
養成所に通いながら、ありとあらゆるアルバイトをした。
喫茶店のウエイトレス、洋服屋の販売、化粧品の店、映画の助監督をやっている人のバー、銀座のホステスのヘルプもした。
勝手に大学もやめ、親は呆れていただろうから、自分で働いて稼ぐしかなかった。
養成所を出て、小さな小劇場劇団に入った。そこで、私の好きな芝居ができた。いわゆるアングラだ。私に一番ぴったりきた。一緒に暮らした男とは別れた。
周りは、左翼運動で盛り上がっていた。下手すれば私も、重信房子や赤軍派の女戦士になっていたかもしれない。しかし、私にとっての革命とはいったい何なのだろうか? と考えた挙句、革命としての子どもを産もうという、無茶苦茶な結論に達した。子どもを産むことは私の肉体で、世界を変えることだった。そして私は、映画の美術屋と結婚し、1970年、女の赤子を産んだ。私はまだ22歳だった。
芝居は演りまくっていた。子どもをおんぶして舞台に立ったこともある。
そしてまた、恋をした。夫と子どもを置いて駆け落ちした。娘は、夫の親にとられた。
その男と、新宿ゴールデン街で「クラクラ」という店を始めた。
店は何故かすぐに繁盛した。売れない役者やカメラマンやイラストレーターや映画屋のたまり場になった。有名人もいっぱい集まった。毎日が、議論と喧嘩だった。
芝居も馬鹿みたいにいっぱいした。お酒も浴びるように飲んだ。お金も貯まった。
有名人に会いたくて来る訳のわからない客も来るようになり、客を分けるために、区役所通りに、有名人用の秘密の店、「MayBee」も開店した。
娘は、私が食えるようになったので、前の夫の家から取り戻し、一緒に暮らすようになった。
娘には寂しい思いをさせた。可哀想なことをしたと、今でも悔恨の思いが残っている。
そしてまたまた、凝りもせず私はイラストレーターの丁稚と駆け落ちした。今度は子連れの駆け落ち。2度目の結婚をした。
新しい劇団で5年位、主演女優をしていた。新子は特別だよと言われ続けた。
店2軒、演劇、子育てはそっちのけだった。今で言う、ネグレクトだったかもしれない。
夫もイラストレーターで食えるようになり、娘も自分の子どものように可愛がってくれたので、私は安心してテント芝居に打ち込んだ。
唐十郎の赤テントには背を向けて、曲馬館から分かれた一番過激な夢一蔟の主演女優になった。
店は2軒とも辞めた。唐突に。そしてまた、男がらみで離婚した。娘は夫だった人が面倒を見ていた。
40になって急に勉強がしたくなった。将来のことを少し考えたのかもしれない。
思春期に通っていた学校はちっとも面白くなく、何も身に付かなかったが、私の勉強適齢期と言おうか、そんな時期が訪れた。
カウンセリングスクールに5年通った。大学も放送大学で4年間、心理学と哲学を勉強した。楽しかった。そして、精神保健福祉士が国家資格になったので、その専門学校に2年通った。国家資格を手に入れた。10年間勉強した。
精神に疾患を持つ方と芝居をしたり、群馬県の有名な精神科病院にワーカーとして働いたり、実に充実していたし、実りや学ぶべきことの大きい10年だった。
気が付けば、60になっていた。
病院を定年退職し、東京に戻った。
私はつんのめるようにして、やりたいことをやって生きてきた。
ケアマネージャーの資格も取り、その仕事もしたが、これは合わなかった。
そして、62の時、ふと、ゴールデン街のことを思い出した。
10年間の期限付きで、ゴールデン街で店をやってみようと思い立った。
ゴールデン街はすっかり様変わりし、昔のでたらめな禍々しさはなく、すっかり普通の健全な飲み屋街になっていた。昔からの老舗はすっかり店を閉じていた。昔のゴールデン街は燃えていた。映画屋の卵や、アングラ役者、無名のカメラマン、物書きと称する人たちが、500円を握りしめ、毎日、喧々諤々、表現について熱く語っていた。当然、毎日喧嘩だった。そのひたむきさと熱気が好きだった。時には私も大声を出した。今では、外国人の観光地でもあり、相当な違和感はあったが、若いスタッフに助けられ、何とか継続している。
私は、1980年代に田口トモロヲとやっていたガガーリンというバンドのCD復刻版発売の記念ライブをやったり、精神科時代の経験を活かし、『行ってもイイ精神科、ダメな精神科 東京23区精神科潜入記』という本を出版したり、人生を整理する時期に入っているのかもしれない。
現在、71歳。気が付けば、すっかり婆さんだ。
でも、まだまだやりたいことはある。
振り返れば、濃く生きた人生のような気もする。そのことをまとめたり、汚い婆さん役で映画に出たいとも思っている。
一生、夢見る少女のような気もする。
何も妥協することはない。
やりたいことは全部やる。
死ぬまで前を向いていたいと思う。
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71歳 まだ子ども