中学生のとき、適正職業テストを受けさせられた。マーク式のテストで、設問に対して「当てはまる」「やや当てはまる」「当てはまらない」「まったく当てはまらない」で答えるやつだ。
その中にあった「人の役に立ちたい」という設問に対して、「まったく当てはまらない」と回答した。破けるんじゃないかってくらい、力強く塗りつぶした。いや、破けていたかもしれない。
人の役になんて立つことなんてしないぜ。ずっと心の中にあったパンク精神めいたものが、あのテストによって言葉になった。人の役になんて立つもんか。それから10年が経って、なんと私は「無駄づくり」ということを仕事にしている。
「無駄づくり」とは、私が作った造語だ。文字通り、世の中に必要とされない無駄な物を作るコンテンツである。インスタ映えを撮影しようとするとカメラに指が映り込む「インスタ映え台無しマシーン」とか、バーベキューに行く人を効率よく呪える「Twitterで『バーベキュー』と呟かれる度に藁人形に五寸釘が打ち付けられるマシーン」などを日々作っている。
人の役に立たないものを作って、それを文章にしたり映像にして世間に発表している。そういう活動を5年くらい続けていたら、なんとなくお金になってきて、今は「無駄づくり」だけで生活している。
20歳のときに始めたから、人生の5分の1を“無駄”に捧げている。そう考えると、なんだか自分がすごい人間に思えてきたりもする。5分の1ですよ。
「人の役に立ちたくない」そんなことを思いながらすくすく成長した私だけれど、社会に出てからは、そんな強がりは消えた。人の役に立つかどうかは、社会で生きる上での人間の存在意義だと気づいたのだ。そして、誰からも必要とされていないことを感じると、言いようもない孤独に包まれた。
誰かの役に立たなければ。実りのある時間を過ごさなければ。そんなことを考えるようになってきた。
現実はけっこう残酷だ。なんとなく生を受けて、教育を詰め込まれ、意味も分からず社会で幸せを求めて生活しなくてはならない。ルールや、固定観念や美学などで作られた透明な道が見えてくる。そして、そこを歩んでいかなくてはいけない気がするのだ。
「死ぬまでに何かでっかいことやらなきゃ」とか。将来に焦りながら日々の生活を過ごしていた。
その中で、居酒屋で友達とくだらない話をする時間もある。
人生は限られているのに、汚い居酒屋で生産性のない話をしていていいのだろうかと、ふと自問した。いいのだよ。と、自答した。
「1次会で帰っておけばよかった」と思うほど盛り上がらない2次会のカラオケや、休日を全て費やして見た海外ドラマの内容をすぐ忘れちゃうこととか。喫茶店で隣の席にいるおばさんたちの世間話とか。そんな誰のためにもならない無駄が愛おしく思える。そして、自分の人生は、そんな無駄を積み重ねて作っていきたい。愛おしいと思える無駄を重ねたら、愛おしい人生になるんじゃないだろうか。そんなことを思えるようになってきた。
それでも、生きていくためには、稼がなくてはならない。お金をもらうためには、誰かの役に立たなくてはいけない。でも、どうせ生まれたからには、人の役に立つとか考えすぎずに幸せでい続けたい。楽しいことをして、生活を送りたい。わがままだろうか。わがままでもいっか。
多くの人の役に立たないことも、誰かの役に立つかもしれない。世界は広いし。そんなことを信じながら、一生懸命、「無駄づくり」をしている。
『無駄なことを続けるために』という本を書いた。
私が、「無駄づくり」という大切なことを続けるために、試行錯誤してきたことをまとめた内容だ。
私と同じように、“人の役に立たないけれど大切なこと”を続けたいと思っている人の肩を揉むような「お互い頑張ろうぜ」と言えるような本になったかなと思う。そして、この本に関しては、誰かの役に立ったらいいなあと思っている。
急に本の宣伝を入れたため、青汁のCMのようなコラムになってしまった。
この本では、何人かの尊敬する人たちに取材に行き、好きなことと稼ぎ方についてお話を伺った。She isの編集長である野村さんにも会いに行き、「会社の中にいながら自由に生きること」についてお話ししてもらった。
人生の全ての瞬間が幸せであることは、不可能だ。歯を食いしばらなきゃいけないときもある。でも、私は、「無駄づくり」を仕事にできてから、心の底に幸福がある。悲しいときも楽しくないときも、その幸福がずっと感じられる。
だから、これからも限りある人生を無駄と一緒に過ごしていきたい。