「あなたは将来きっとものを作らないと思う」
18歳の夏、わたしは瀬戸内海に浮かぶ小さな島の一つで初対面の美術家にそう告げられて、その場で立ち尽くしていた。名前も知らない神社で、何者でもない身体を持て余すように、潮の香りがする風に吹かれながら。自宅から適当に引っぱり出して身につけていた春物のカーディガンが肌にじっとりと張り付いて気持ちが悪かったが、わたしはそれを脱ぐことができず、下手な化粧がほとんど流れ落ちてしまうほど汗をかいていた。
高校に進学してすぐ美術大学への進学を目指し始めたわたしは、受験対策として美術予備校に通う日々を送っていたが、調和のとれたデッサンを制限時間の中で完成させることはいつだって途方もない仕事のように感じられて、なかなかそれに慣れることができなかった。次第に受験のために絵を描くことは苦痛になっていき、通学電車が予備校前の駅に着いても電車を降りられなくなった(そのため電車に乗り続けていたら、色々なところに着いた。わたしは川で足を冷やしたり、映画館に一日中座っていたり、掌を合わせて何かを祈る人々の姿をただ眺めたりした)。
ある時、気分転換をするために高速バスに乗って瀬戸内の島々に2週間ほど旅行に出かけた。特に計画も立てず、ゆっくりと時間をかけて島を散歩して一番安い宿に泊まり、飽きたらフェリーで別の島に移った。ある日の昼、小さな店でアイスクリームを買って外で食べているとき、何人かの人々と知り合った。その中の一人が、くだんの美術家であった。わたしは彼が話しているところを観察して、その人のことを信頼できそうな人間であると判断し、彼と神社まで散歩をしているあいだ、自分が直面していることを一つずつ話した。
将来美術を仕事にしたいので美術大学に進学したいと思っていること。予備校に通っていたが制作を楽しめなくなってきていること。身体が思うように動かず息が詰まるような感じがすること。
一通り話をした後、彼はわたしの目をじっと見据えて、「たぶんだけど」と言いながらも、確信に満ちた声で告げた。「あなたは将来きっとものを作らないと思う」と。
あなたは将来きっとものを作らないと思う。その言葉は不思議な響きとしてわたしの身体を通り抜けていった。18歳のわたしは、自分は将来美術作品をつくることになると心から信じていて、そのための試練がどれだけしんどいものであろうと、どうにかして乗り越えていかねばならないものだと思っていたのだ。自分がこれから向かっていこうとしていた場所に既に立っている人に言われたその言葉は一聞すると拒絶のようでもあり、わたしは突然手渡されたそれにしばらく呆然としながらも、一方で自分がどこか安心していることに気が付いた。
美術予備校の冷たい床の上で低くて硬い木製の椅子に何時間も座り続けることにはうんざりしていた。鉛筆をカッターで器用に削るのも、昼食を摂る時間が短いのも嫌いだった。そして何よりも、わたしは少なくとも美術大学が受験において求めるような形でものを作ることにあまり向いていなかった。それでもそれらの結論に向き合うだけのエネルギーがないほどにくたくたになっていたわたしは、心のどこかで誰かに背中を押してほしいと思っていた。毎日電車を乗り過ごすのではなく、直接どこか別の、もっと心がおどる場所に行ってもいいのだと思えるように。
例えばそれがよく晴れた日でなかったら、忌々しい季節外れのカーディガンを脱ぎたいと思っていなかったら、汗をかきながら食べたバニラ味のアイスクリームがおいしくなかったら、その場所が初めて訪れた島の静かでうつくしい神社でなかったら、そしてその美術家の態度に滲んだものがはっとするほどの真摯さでなかったら、わたしは彼の言葉を真っ直ぐに受け取ることができなかったかもしれないし、むしろ傷ついていたかもしれない。しかしその日は、瀬戸内の島であらゆる要素が自然に重なり合うようにして、わたしの心をほどくようにそれは起きたのだった。
夢を持つのはきっと素敵なことである。一方で、わたしたちは変化をし続ける生き物であり、最初に抱いた夢と、自分の調子とが少しずつずれていってしまうのもまたごく自然なことである。そのために、時々は自分の心と身体の声に十分に耳を傾けて必要に応じて調整を行わないと、夢は時に呪いのようなものに姿を変えてしまう。わたしの場合、夢はいつからかただの執着になり、極めて不安定に立つアイデンティティになっていた。自分で自分に呪いをかけていたし、その呪いは心と身体をがちがちに凝り固まったものにするには十分なものだった。
旅行から帰り、自分の身体に合わなくなった夢を一度調整しなおすと、それまで目に入らなかった様々な選択肢が見えてくるようになった。わたしは絵を描くのをやめ、文章を書き始めた。美術予備校の代わりに図書館に通い、一番座り心地のよい椅子で本を読むようになった。
「なりたい自分」の調整のサインは、時に不思議な巡り合わせとして、風が吹くようにして人生にあらわれるものである。きっとそれぞれにとって然るべきタイミングで、然るべき形をとって。それは肩こりや風邪のような身体の変化であるかもしれないし、あるいは初対面の人間が放った一言であるかもしれない。