そもそも、あらかじめ決められた「さだめ」というのは、運命ではないのだ。厳密には「宿命」と呼ぶ。「運命」は運ぶ命と書くように、自らの経験や選択をもとに、歩む道のりのこと。
運命という言葉の由来をそんなふうに私に教えてくれたのは、寡黙な祖父。13歳の夏だった。
彼は定年まで中国の大学で歴史考古学を教えていた。そんな祖父が、学問の派生ではじめた易学という占法が、村では評判になるほどよく当たり、私の母に「ここ3日は事故に気をつけて」と突然電話をかけてきたかと思えば、その数分後に追突事故に遭うはめになるなど、見事に的中する彼の占いに、私は幼心に「なんと!」と畏怖の念すら感じていた。 中国では占いを「算命」と呼ぶ。彼に言わせてみれば、宿命と運命を算出する「算命」こそが、易学占いの真髄だそう。へえ。
私が物心ついた頃から既に仙人のような風貌をしていて、言葉数の少なさと穏やかさから、流れている時間が周囲と違うような、どこか浮世離れしているようなおじいちゃんだった。
では、私の話をしよう。
私のバックボーンは少々ややこしい。やっかいゆえに、今回は思い切って割愛するが、出自が周囲とは異なっていた。今でこそ、引け目は感じていないが、周りには先入観を与えることも多く、物心ついてからしばらくは「生きづらかった」のだ。
名前、ルーツ、歴史、偏見、社会情勢……漠然としたそれらがない混ぜになって出来上がった、プールのようなものに私は首まで浸かっていた。個性や素性は隅に追いやられ、記号のような「フィルター」を通して周囲に接されていた。私のもののようで、私のものではない、剥がせないカテゴライズ。
そのカテゴライズは、幼少の頃から幅をきかせ、偏見的だった保育園の先生からは、言いがかりのような形で昼寝時間に頭を激しく叩かれ、その拍子で初めての乳歯が抜け落ちた事もあった。彼女に悪意があったかどうかはわからない、幼心に驚きと、困惑と、傷が残った。いくつもの小さな積み重ねから、多かれ少なかれ人間不信になっていた。人と関わると、それだけで「生きづらさ」から逃げられずにいた。
さて、引越しや転校をよく繰り返していた私にとって、音楽、読書、映画鑑賞や、ひとり遊びはまさにうってつけの拠りどころであった。どこにいても、どこまでも遠くへ行ける。空想は誰も傷つけない。
活路を見出すと、気持ちは回復した。書いたり歌ったりすることから始まったひとり遊びは徐々に幅をきかせ始め、クロスステッチや編み物、模型、アクセサリー作り、ドールカスタム、そしてラグマットを際限なく量産しては周囲を困らせた。悩みは尽きなくても、工夫次第で隅に置くことはできるようだ。
そうやって生きづらさを横目で見ながら、私はなんとか、私自身を殺さないように色んなものをかき集めていた。
それでも思春期に入って、生きづらさはじっとりと体を蝕んでいった。閉塞感が原因で、徐々に体調を崩しはじめていたにも関わらず、それすら認める気になれないほど、同時に周囲の目を再び強く意識するようになっていた。年相応の気恥ずかしさもあったのだろう。
それなりに過ごそうとすればするほど、自分が、知らない誰かのように思えることが増えた。一体なにを考えているのか、なにがしたいのかもまるでわからなくて、だんだん体まで思うように動かなくなっていた。
16歳。自分がちぐはぐで……透明どころか、形もなくて、なんにもない!
仮面をかけたように、平然と過ごしているふりはできても、自身の虚さをありありと感じてしまい、生活も言動も支離滅裂になっていき、遂には壊れてしまった。
自分を見失うとは、こういうことなのか。それより私は自分と向き合ったことが一度でもあったのだろうか。誤魔化し、忍んできたぶんが、私を締め潰そうとしていた。ここにきて自分自身に見透かされてしまった。
甘酸っぱくて、輝かしい学生生活を送るつもりが……本来の予定とは真逆の、くたびれきったティーン時代を過ごしていた。ただ、その頃やっと心の底からふつふつと別の思いも湧いていた。
「このまま、生きづらさと心中するつもりなの?」
私はあらかじめ決められた自分ではどうしようもできないことに、打ちひしがれ続け、無邪気なほど向き合い、傷ついては泣いていた。
どうしようもないのに。でも、どうしようもないことって、そんなに重要? その多くは逃げられないものだけれど。自分自身で解決や変更ができないこと、それだけで、私がどんな存在で、何者かをはかり定めることが果たしてできるのだろうか。そして、ただ受け身で傷つくことだけが私に唯一できることなのだろうか?
あの夏、祖父が穏やかに諭してくれた話には続きがあった。
人は使命を感じた瞬間や、志を持つこと(立志)で、受動的な宿命を能動的に扱うようになる、それを立命と呼ぶ。宿命を前提に、立命することで、運命が大きく変わっていく。運とは軍を進めると書く。だから運命は自分の命をどう進行していくか。ということ。
もちろん人生に仕切り直しなんてものはない。そして使命を見つけるのは難しいことで、なかなか都合良くは現れない。現実はひたすらに地続きだ。
祖父の言葉はぐるぐると私のなかにとどまりつけていた。そもそも使命感とはどんなものだろう? と悩み続けるも、地続きの現実の中にいる私は、相変わらず自分が一体全体、何を望んでいて、何がやりたいことなのか、そしてを考えているのか、ちっとも見当がつかないままだ。
ただ、そんな混沌とした状況でも、好きなものは好きなままだし、安らぐ方法を知っている。一人だけど、孤独じゃない瞬間。それが確かに私を支えていた。
慰めというのは尊いもので、ちいさな創造性のかけらがひとつ残らず枯れてしまっても、好きなことだけは手放さない、とことん好きでいてみる、というマイルールだけを守り、手は動かしていた。アイデンティティやコンセプトが不在でも、なにかを作り始め、続けていればいつかは完成する。当たり前ながらもその事実の頼もしさに励まされていたのだ。
22歳。はからずも就活がトントン拍子に進んだころ、父が難病に倒れた。神経系の病で、意識や記憶への影響はないながら、運動神経が徐々に動かなくなり身体中の筋肉が衰えていく。現代では治療の術はなし。画家という職で、繊細な作業を必要とする父にはあまりにも酷な宣告で、彼は筆を置いた。家庭を顧みず、絵の道をただ真っ直ぐ進んでいた父。奔放な彼と私は、一度も分かり合えたことはなかった。それでも、彼の置かれた状況にひどく狼狽えた。ワーカホリックの母ひとりに介護を任せるのは、難しい。なによりそんな自分は許せないだろう。希望していた職や、やりたいことはこの際、胸にしまうしかない。合理的な職と、妥当な選択。自分で選んだからこそ、納得できた。
それでもおざなりになった感情が追いつかない日もあった。
蝋を扱い始め、サシェ・キャンドルのブランド「檸檬はソワレ」を始めたのはその頃だった。特段アロマに興味があるわけでもなければ、キャンドルもあまり触らない自分が、なぜ思い立ったかは、実は今でもほとんど覚えていない。ましてやサシェという単語すら知らなかった。私自身、あんまりキャンドルに点火しないし、芯がなくてもいいか程度の認識で、芯なしアロマキャンドルを作り始め、その少しあとでこれを「ワックスサシェ」と呼ぶことを知った程だ。
当時はとにかく没頭しすぎず、ほどほどの距離感で、新しいことを始めたいという、それだけの理由で……恥ずかしながら、まさにふってきた、というような状況だった。そんなふんわりとした動機と熱意だったため、誰かのもとで学ぶこともなく完全にトライ&エラーの独学だ。ただ私はそんな瞬間が大好きだった。できないことを知ることと、手段を突き詰めるのは苦じゃない。サシェを作ることは、日々が困ぱいするほど詰まりそうな気持ちの慰めになり続けた。
サシェの制作は、基本的に制作先行で、作りながらテーマをゆっくり組み立てたり、検討していく。そのため、制作を続けながら徐々に自覚したことも多く、自分の考えを言語化していく機会に恵まれた。
作れば作るほど、蝋もそうだが、特に香りの奥深い世界に惹かれ、フレーバーを増やしていった。
嗅覚は他の五感と比べて、文脈や評価に頼らず、周囲に影響されずに済む部分が強く、とても感覚的で本能的。加えて湿度や温度、体調によって感じる香りの幅さえある。性差や文化観、価値観……そんな通念常識は容易く越えて、好き嫌いがとてもパーソナライズされている。こんなに身近な感覚なのに、ひとりひとりの好みがはっきり分かれ、自我を保っている。
広げてみれば、国籍、血筋、誰を愛し、どこで生まれ、育ち、なにを信じるか、その情報が表すことのほとんどは取るに足らない情報ではないだろうか。そのどれもは当人にとっての補足事項の域を出ないのだ。私たちはその情報だけでは語り尽くせないほど、もっと複雑で、乱れていて、予測もできない存在ではないだろうか。
そのような秘めたる思いが、無自覚ながらも実は作品を通して顕在化されていた。それに気が付いたのは半年くらい前だったが、その瞬間、いつかの「生きづらさ」の伏線が回収されていく音がした。遠回りで、流れついた側面も大きい。それでも20年近く苦しみ続けていた果てなく見えていた壁は、気づかぬうちにゆっくりと、登り越えていた。
登ってから見えた、塔の上からの景色。なんてことない小さなエピソードや、沢山の断片が街並みのように、理路整然と連なり、収まって見える。
ああ、私はこの瞬間にずっと出会いたかったんだ。
これは自尊心なのか、はたまた自分らしさと呼べばいいのだろうか。慣れない感覚だけど、どうやら以前のような、何もかもがちぐはぐで、見失っていた頃の私とは違う。
取りこぼした大切なものは、いつか形を変えて尋ねてくるかもしれない。
生きていくなかで、砂鉄のように寄せられた多くの欠片や伏線が、時を経ていつかこの身を媒介して、ゆっくり広がり、回収されていく。
いつかの祖父の話を思い出していた。
ー自らの経験や選択をもとに、歩む道のりのこと。ー
そのとき、私ははじめて「運命」に触れた気がした。