この間、久しぶりに占いに行った。
占いとは不思議なものだ。根拠なんて書き込みにもよるけれど、5ちゃんねるのスレより薄いこともあるし、結果に対してうーんと思うことも多々ある。
だけど、何だかそこには安心がある。お金を払ってサービスを買っているのだから、当たり前じゃないかなんて思うかもしれないが、おそらく、それは確約のない私の未来のことを一緒に考えてくれているという実感があるからなんだろう。
要は、ちょっとしたカウンセリングのようなものだ。
私は占い師から存在の承認という時間を買っているのだと思う。
中野ブロードウェイの地下の奥まったあたりのお店に入った。ついうっかり、ぼんやりと歩いていたら中の人と目がバチっとあってしまったのだ。聞けば、六星占術で自分の誕生日と生まれた時間・土地などを教えると、仕事とか好きな人との今後とかをみてくれるそうな。特別占いに詳しいわけでも、好きな占いの種類もなかったので、何かの縁と思って入ることにした。
独特なお香の香りがする小さな部屋に座り、上野千鶴子さんに似た顔を持ち、少しやわらかくした上沼美恵子さんのような喋り方をする、控えめに言っても強烈なマダムに生年月日と出生地・みてもらいたいことを伝え、ふむふむと唸ってもらう。
当たっているような当たっていないような、訝しいけれどどことなく嬉しいような気持ちで私は自分の運勢を聞いていた。それは、他人から出てくる自分の未来を聞いているのにどこか知らない人の話を聞いているような不思議な冷静さも伴っていた。
「占いは統計学だからねぇ」
占っている最中、彼女は何度かこの印象的な言葉を吐いた。
その瞬間、今までのモヤモヤが何となく腑に落ちた。
当たり前だが、私たちの人生は日々の小さな選択の積み重ねでできている。勉強するかしないか、イタリアン料理を食べるかフランス料理を食べるか……私は今日イタリア料理を食べたけれど、もしかすると、フランス料理にしていたら好みの男の人に出会えたかもしれない、反対にソースを飛ばしてお気に入りの服をダメにしていたかもしれない。
六星占術は自分の誕生日と生まれた時間・土地を元に運勢を紐解いていく。似たような時間、土地、環境に生まれればどことなく性格だって似てくるんじゃないだろうか。
私の出身地には「決まらさった」という方言がある。
これは、「なんとなく決まってしまった」という意味だ。
別に自分は特に積極的にこうしたいという意思があったわけではないんだけど、なんとなく周りの状況から、こういう選択に落ち着いてしまった、という半ば諦めのような言葉である。気に入ってはいないが、このような環境でずっと生きていた私には知らず知らずのうちに「気まらさった」精神がついているのだとも思う。
それぞれの土地に特徴があって、きっと同い年でも「気まらさった精神の土地で育った」私と「アメリカで自分の意見を主張することをよしとして育った」女の子は考えが違うだろう。そのような違いが何百年分のデータとして蓄積され、六星占術というルールによってカテゴライズされていると考えたら……もしかすると特徴ある偏りはあるのかもしれない、もしかするとね。
あ、なんだかワクワクしてきた。
もちろん、外れていることだってある。
でもそれは自分が統計学でいう外れ値だったということなんだろう、遥か昔からのたくさんの人のデータで構成された正規分布の隅に居心地悪そうにちょこんと居座っているのかもしれない。まあ、それはさておき、私が生きた年代・土地柄は大雑把にこういう傾向があるらしい、それをふーんと覚えておくだけでもそのうち役に立ちそう、かな。
少しの俯瞰と安心を買って、お店を出た。
彼女によれば、私は我が強すぎて何かにつけて一言多くて失敗しているそうだ……なんだかいろいろと心当たりがあるかも。
ブロードウェイの情報過多すぎるお店を通り過ぎながらぼんやりと考えを巡らせる。
話は聞いたが、自分の運勢が急激に好転するわけじゃなし。また今日と地続きな日常は続いていく。さっきお金で買った少しの俯瞰と安心も明日にはきっと効果は切れて、次にお世話にするのはまたずっと先の話になるだろう。
……あーきっとこういうことを無駄遣いというんだろうな。