この世界は、どうしてなにかと白黒つけたがる性分なんだろう。
「男」なのか「女」なのか、「イケてる」のか「イケてない」のか、「勝ち」なのか「負け」なのか。
「それを決めるのはこのワタクシであって、お前ではないんだよ」
世界はいつもそうやって上から目線で話しかけてくる。言葉を覚え始めてからアイデンティティを確立していく過程で、幾度となく「人生の主役はキミだ」と強く背中を押してくれたのも、あなただったのに。
少し、私の過去を振り返る。
高校生のときの私は、今よりも髪をショートにしていた。男の子にはほとんど興味がなく、剣道とダンスをそこそこに頑張る、クラスのお調子者の女の子だった。いや、女の子という自覚はあまりなかった。というのも、小学校のころから女子校で育った私にとって「男らしい」とか「女らしい」という概念自体あまりピンと来るものではなかったからだ。この頃の私は「自分らしいかどうか」以外のモノサシを持ち得なかったのである。
女の子の自覚がないからといって、心が男の子であるかと聞かれれば、そうではなかった。ただ自分らしい表現をしたときに、世界が決める「女らしさ」からはどうやら少しはみ出てしまうタイプなんだわ、ということを自覚した。でも、そんな自分も気に入っていた。
Aくんに出会ったのも、この頃。Aくんは、別の女子校で育ったトランスジェンダーの男の子で、私と同じようにスポーツを頑張り、私と同じように髪を短くしている子だった。そう、見た目はほとんど同じなのに、私たちは「性別」が違うのだ。
正直なところ、カミングアウトを聞くまで彼のことは「私と同じようなボーイッシュな女の子」だと思いこんでいた(ごめん)。しかし「どうやら見た目ではわからない性のあり方がムゲンにあるのかもしれない」と気づいたのは彼との出会いがきっかけだったと思う。私たちは互いを理解し、むしろ無邪気に違いを楽しんだ。まだ親しい友だちにしか打ち明けていないというAくんは、このときがいちばん「自分らしい自分」に素直だったんじゃないかしら。私もそうだったのだけど。
私は大学で初めて共学に入る。Aくんもトランスジェンダーであることを自覚してから初めての共学に行った。その世界で私たちは「女子」に振り分けられた。Aくんは早々にカミングアウトをして「男子」として扱ってもらうようになったけれど、私は女子として、そこらじゅうにお手本のようにぶら下がっている「女子らしさ」に辟易としてしまう。
世界は私に、ただ「自分らしく」いるだけではお前は「変わっている存在」なんだという現実を突きつけてきた。男性に愛されるべき「女性としての優劣」というものを、強烈に感じ始めた。焦る私。髪を伸ばし、今まで着なかった洋服を買って、何とか「劣」のレッテルを貼られないように生きなければならないと思った。「どんどん可愛くなるね」と、全く興味のないバイト先の男性に言われるだけで、ガッツポーズをしていたくらいである。私は大切にしていた「自分らしさ」をほとんど見失っていた。だって私の「自分らしさ」は、白黒つけたがるこの世界が定義する「女」として、劣っているのだから。ほんとに、つい最近まで、そんな呪いの中にずっといた。
しんどいな、と思っていたとき転職をした。たくさんの大人に会うようになった。大人になるにつれて大学にいるテンプレのような男女はむしろ少なくなっていったし「あんたはそのままが良いわ」と繰り返し伝えて抱きしめてくれる友が現れた。なにより会社にとって大切なのは全員が同じ目標に対して一人ひとりの強みを生かして楽しく頑張れるかどうかだ、ということに気がついた。男性に愛されるべき女性として「優れているのか」「劣っているのか」は重要じゃない。そう思うと気持ちが一気に楽になったのを覚えている。
私たちは、世界が決める白と黒のその狭間には、たくさんの色があるということを、本当は知っている。
両端の白と黒を選ぶ人が多いけれど、その間の色一つひとつの価値に差はないということを、本当は知っている。
白と黒の両極端しかない世界で過ごしている人たちは、ときに他の色をときに排除し、理解のある人は「受け入れてあげよう」と頑張るが、本当は受け入れるも何もその両極端の間には区切る隙間もなくたくさんの色がちゃんと並んでいる。受け入れられる側と受け入れる側など無いのだ。そして白と黒の間に広がる色はどの色も等しく美しく、磨き手のぶんだけ磨き方がある。その色がどこでどんな風に使われたら、素敵だろうか。どの色を手に取ったとしても、逆らいようがなく手に取る運命だったとしても、私たちはそんなことを忘れずに考えていられるといい。ときに世界に反発して。