ページをめくると、そこにはいつも100年前のロンドンがある。
ビッグ・ベンの鐘が鳴り、人と乗り物が行き交う。
私は歩きだしてみる。
前を進む彼女の、視線の先にあるものを追いかけながら。
通りを曲がり、花屋に入る。
花を選ぶその人の横顔を眺めていると、ふと視線がこちらに移り、目が合った。
この瞬間、いつも思う。自我と呼ぶものがいかに脆く儚いか。
ふたりの間を隔てるものが溶けてゆく、その曖昧さを。
私は彼女になる。
1910年、アビシニア(現エチオピア)の王族たちがイギリス・ロンドンにやってきた。彼らはイギリス海軍の軍艦「ドレッドノート号」を視察し、もてなされた。
適当な言葉を話し、服装も怪しげな彼らだったが、海軍はそれを偽物だと気づかなかったという。彼らの正体はブルームズベリー・グループ——ケンブリッジ大学の学生を中心とした文化集団で、その中には作家デビューする前のヴァージニア・スティーブン(ヴァージニア・ウルフの旧姓)も含まれていた。ロンドンを騒がせた「ドレッドノート号いたずら事件」である。
付け髭にターバン、真顔でカメラに収まっているその写真を初めて見たときには、思わず吹いてしまった。「ウルフ、いったい何やってるの!?」とシリアスで重い作風の作家というイメージからは180度異なる印象を持った。
「ウルフっておもしろいな。かわいいとこあるな」
こんなふうに、ヴァージニア・ウルフは既存のきまりごとに疑問を投げかけ続けた。それは時に読者を揺さぶり、挑発することもいとわない。
『ある協会』(エトセトラブックス、2019年)には、このいたずら事件のエピソードがフィクションの中に脚色されて盛り込まれている。若い女性たちが男性社会の中に潜りこみ、お互いが見聞きしたものを報告するという短篇小説では、男性が特権的な力を持つ社会に対する、きわめて批評的な目線が炸裂している。海軍だけではない。ある女の子は裁判所に。もうひとりの子は美術学校に――。皮肉とユーモアを交えて男たちの様子を語る彼女たちはとても痛快だ。
訳者解説には、「社会が性別によって理不尽に区分けされていることに気づき、その違和感をあえて口にしてみようとする人のことを〈フェミニスト〉と定義するなら、彼女たちはまさにフェミニスト活動家である」とある(同41頁)。ウルフの、特に女性に関することが書かれたテキストを読むたび、勇気づけられるとともに、100年前のイギリスと、現代の日本と、状況によってはさほど差がないことに気付かされる。
とはいえ、こんなふうにウルフの作品をフェミニズムの目線から読むようになったのは、実は最近のことだ。彼女の小説に出会ってからずっと、その文章の美しさと、ときおりのぞくユーモアに魅了されてきた。そんなウルフの、〈フェミニスト〉以外の魅力をもっと人に伝えたいと思い、2019年に『かわいいウルフ』という同人誌を作ったが、この活動を通して、私は人々が〈フェミニスト〉としてのウルフにいかに注目しているかを知ることになる。そしてそれは、私自身のフェミニズムに対する意識も変えていくことになった。
『かわいいウルフ』の営業活動をしながら、この本と、本屋さんで一緒に並べられている、フェミニズム関連の本を読んでいった。『82年生まれ、キム・ジヨン』をはじめとする韓国のフェミニズム文学や、『エトセトラ』『シモーヌ』といったフェミニズム・マガジン、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェやレベッカ・ソルニットといった女性作家のノンフィクション本……。
そして何より、『自分ひとりの部屋』をはじめとするヴァージニア・ウルフの本を改めて読んでみて、ウルフがまなざしたものの、その射程距離の大きさにおどろいた。正直に言って、それまでの私には、フェミニズムが重要であるという認識を持ちつつも、それが自分の当事者意識に関わることだとはどこか思えていなかった。しかし女性たちが書いたテキストを読めば読むほど、その認識はあらたまっていった。フェミニズムは男女の分断を引き起こすものではなくむしろ逆であること。既存の〈ルール〉に問いを向け、自分の頭で考え抜くための視座をあたえてくれるものであること。批評精神を磨くということはこういうことなのかと、おぼろげながらやっと理解しはじめたような気がする。
やはり、ウルフは偉大だ。
彼女の書いたものはとても奥深い。読めば読むほどもっと知りたくなる、底知れない深さを持っているように思う。ヴァージニア・ウルフは一点の曇りもなく、まっすぐに私たち女性の未来をまなざし、そして問うた。『かわいいウルフ』を作り終えた頃は、もうしばらくウルフはいいやと思いかけたが、やはり戻ってきてしまう。これからの人生でまた何度でも私は彼女に出会い続けるのだろう。
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