散歩に取り憑かれて/花田菜々子

夜と朝の変わり目を毎日この目で見るために3時半に家を出る

2020年7・8月 特集:癒やしながら
テキスト:花田菜々子 編集:竹中万季
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お店が明日からしばらく休みになると告げられたのは、4月7日のことだった。明日から、いつまでかわからないけど出勤しなくていいのだと。不安、怒り、悲しみ、いろいろな気持ちに心を乗っ取られたけど、いざ休業期間が始まってしまうと、それとはまったく別の話として、ずっとずっとシフト制の中で働き続けてきた私にとっては「仕事に行かなくてもいい」日々の連なりが、正直言って、こんなにとろりと輝いているものだとはまったく知らなかったことだった。24時間が全く違う色をしている。別の人の人生のようだ。

運動不足を解消する、くらいの軽い気持ちで散歩に出たのが始まりだった。なんとなく朝の散歩がよさそうと思ってまずは7時に家を出る。その時間の街はちゃんとした人たちのもので、緊急事態宣言下でも会社に行かねばならない人たちとすれ違うのはなぜか気まずいし、人が多いとマスクをしないといけない。少し早めて朝5時にしてみる。外を歩く人は少ないがもうほとんど朝だ。でも空気が気持ちいいし、見飽きた近所の通りも違う顔をしている。早い時間のほうが色がどんどん変わっていくのを体感できておもしろい。ならば、ふだんはほとんど目視することができない夜と朝の変わり目を毎日この目で見れたらどんなに素敵だろう。3時半スタートがベストだな。そう結論付ける頃にはもうすでに散歩に取り憑かれていたのだ。かくして私は緊急事態宣言の中、毎日3時半にこそこそと家を出ていく謎の女となった。

職場の開店時間も睡眠時間も気にしなくていい散歩は、1時間なんかで帰るのはもったいないくらい楽しい。見たことのない景色と、朝になっていく光を目にすることが最上のよろこびだった。日に日に散歩欲はエスカレートして、時間で言えば最低でも2時間、距離も10キロ超えがもはや当たり前。radikoでお気に入りのラジオ番組に合わせ、笑ったり聞き入ったりしながら歩くとあっというまに2時間番組が終わる。知らない番組をどんどん聴き始めるとどれも面白くて、散歩を続けなければいけない理由がまた増える。コースを変えて行ったことのない街にどんどん出向き、東京マップをどんどん塗りつぶす。新規開拓のため、帰りは空いているバスや電車で帰ってこられるルートを考える。またはシェアサイクルを使ったルート。

家を出る前に感じていた鬱屈や、だるさ、無気力は、長距離散歩の後ではいつもすっかり取り払われていた。何をあんなに気に病んでいたんだっけ。そう感じることが増え、最終的には現実世界(?)で嫌なことが起きても「散歩で取り戻すから別にいいし」とまで思うようになった。そして期待通り散歩で雑念を洗い流し、どんどん頭がクリアになるのを実感しながら、気づけば「散歩があれば他には何もいらない」と真顔でつぶやいていた。散歩……怖すぎる。

永遠に続くのか。続いたら怖いような気もする。いつかは飽きるのだろうか。と、心配なほどだった私と散歩の蜜月は、緊急事態宣言の解除とともにあっけなく終わった。「いつもの日常に戻っても朝3時半に起きて徒歩で出勤すればいいだけだ」と一瞬思ったが、突然忙しくなった日々は別の人の人生のように色を変え(いや、こちらがそもそもの自分の人生だったのだが)、そんなことは無理に決まっていた。

けれど散歩の足りなさだけが私に残った。急に始まった仕事で身体は疲れていたけど、散歩を渇望していた。仕事も少し落ち着いたある日、おそるおそる日比谷の職場から2時間半かけて歩いて帰ってみる。やはり仕事の後では足への負担が全然ちがう。「仕事で疲れた」は口から出まかせではなく、身体は8時間分ちゃんと疲れているのだなあと感心した。高層ビルの立ち並ぶ夜のオフィス街をよれよれと進んでいくと、それでもあのときの感覚が少しずつ身体に戻ってきて、わたし1号とわたし2号がつながった。
「散歩は最高だよな」「そうだね、やっぱり散歩が必要だよ」

毎日は無理だけど週1でも週2でも。2時間がきついときは1時間でも。今はそんなふうに散歩チャンスを待ち望み、恋焦がれて生きているのです。

PROFILE

花田菜々子
花田菜々子

1979年東京都生まれ。流浪の書店員。現在はHMV&BOOKS HIBIYA COTTGEで店長を務める。
自身の体験を書いた「出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと」が好評発売中。

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