プロダクションノートによると本作の当初のタイトルは『コレットとウィリー』だったそうだ。そうならなくて本当によかった……。肝心要のタイトル、お願いだからあんなやつと、名前を並べないで。コレットとウィリー。並列された字面を見るだけで虫酸が走り、あの男への怒りが再燃する。
フランスの田舎で育ったコレットが、父の友人である14歳年上のウィリーと結婚したとき、彼女は20歳だった。人気作家の妻としてパリで暮らすようになるが、ウィリーは作家とは名ばかりで、執筆はゴーストライター任せ。コレットが自身の少女時代の体験を書き、ウィリーが「添削」して、社会現象級のヒットとなる『クロディーヌ』シリーズが誕生する。著者の名前はコレットとの連名ではなく、ウィリー単独だった。
映画は、妻でありゴーストライターとなったコレットが、夫ウィリーの支配下から脱するまでの十数年を描く。これは、コレットが執筆した回想録『わたしの修業時代』で、自らが切り取っている時期と重なる。彼女の人生が華々しい伝説と化していくのは、名実ともに「作家コレット」となるこの先のことだが、女の人生において語るべき教訓があるのは、ここなのだろう。
年頃になったばかりの娘が、壮年の男の見世物、玩具、放蕩の傑作になりたいと夢想する場合はすくなくないのである。それは醜い願望であり、満足させればかならず報いをうける。(中略)
そんなわけでわたしの場合もたっぷりと、てきめんに罰があたったのだった。
シドニー=ガブリエル・コレット著、工藤庸子訳『わたしの修業時代』(ちくま文庫)
夢見心地と手酷い仕打ち。それを許し、ときには仕返しもし、また裏切られ、泣き、怒り、そして笑う。無知ゆえに、若い女は忙しい。19歳から34歳までを演じるキーラ・ナイトレイを見ていたら、自分が若い女だったときの、あの気持ちを思い出してきた。年頃になったばかりの自分が、なにを夢想し、どんな報いをうけたか。
でもこれは、恋愛バトルをとおした単純な成長譚ではない。書くことが二人の間にあるかぎり、共犯関係はときに幸福な瞬間を迎えもする。妻に自分名義の小説を書かせ、金を好き放題に使い、浮気三昧だったウィリーはたしかに悪党だが、コレットにとっては踏み台でもあったし、彼の存在抜きにして世に出ることはできなかった。30年後、この頃をふりかえるコレットは『Mes apprentissages』と題名をつけた。修業だけでなく、学び、見習い、徒弟の奉公までを含んだこの言葉を。野心が入り乱れたグレーゾーンで、加害と被害がマーブル模様を描く。だから映画のキーラ・ナイトレイの表情も、回想文におけるコレットの筆致も、とても微妙だ。
人気作家だったウィリーに惹かれた時点で、コレットはどれだけ自分の書きたい欲を自覚していたのか。ゴーストライターの座に自分がやがて座るであろうことを、どのくらい予見していたのか。作家の妻という立場に身を置くことで、自分の文才が埋もれずにすむかもしれない、よしんば発揮できるかもしれない、してやろうという意気がどのくらいあったのか。ウィリーが「校長」よろしく文章を添削指導する中、コレットは彼の編集能力をわくわくしながら吸収していたのではないか。
「妻で終わらず、世界に触れていたいの」とコレットは言う。ウィリーにしたら飼い犬に手を噛まれたようなサプライズも、コレットからすると、本能的に求めていたものを、シナリオ通りに獲得していったのではないか。もちろんウィリーはただの拝金主義者で、売れるものを書けとコレットを部屋に閉じ込めるシーンは完全にアウトだ。しかし彼女は、怒り心頭でドアをいまにも蹴破りそうに荒れながら、心のどこかは冷静で、これで書くための舞台装置が整ったわとでも言いたげに、執筆モードに切り替える。私は書きたい、書くためにわたしを追い込んで――。まるで書くことをめぐる、DVめいた相互依存。
劇中ある人物が、こんなことを言う。「正気を保つために書いてるだけだ」。書く人は、多かれ少なかれそういうところがある。そして人は、持てる能力を発揮できないとおかしくなる。コレットは飼い殺されずにすんだが、家庭という檻の中で、ある種の女性は常にその危機にある。女の人生において語るべき教訓があるのは、まさにここなのだ。
女性は作家として世に出られなかった時代と、いよいよ女性も作家を名乗れる時代の、ちょうど転換期を、コレットは歩いた。彼女は報いと罰を浴び、身を削って闘い、声をあげ、自分の名前を勝ち取った。だから題名は『コレット』でなくてはいけない。これはもう、絶対に絶対に。