「もっとちゃんと自分の身体の言い分を聞いてあげた方がよかったのかもしれないって」。
これは、結婚式を10日後に控えた直子(瀧内公美)が、数年ぶりに昔の恋人の賢治(柄本佑)と再会し、抱き合いながら語った言葉。白石一文原作、映画『火口のふたり』は、賢治と直子のふたりだけが登場し、直子の結婚相手が出張から帰ってくるまでの5日間だけ、喋ったり、食べたり、お互いの身体の感覚を思い出し、確かめ合い続ける。
5日間、直子の新居で、長距離バスで、ホテルで……繰り返されるふたりのセックスは、劇的でもなく、見世物的でもない。食事のシーンと等しい温度で描かれるふたりのセックスは、あくまでもわたしたちのあたりまえの人生に存在する、「生活のなかのセックス」だ。そしてそのあたりまえのセックスは、生きることと死ぬことのあわいの夢のような時間であり、生きることと死ぬことの両方のようでもある。
セックスは、子どもをつくるための営みなのか? 子どもがほしいというのは結婚の理由になり得るのだろうか? 結婚を控えた/結婚という制度に身をおく人間が、身体の言い分に素直になってはいけないのか? 5日間に生まれる、さまざまな問い。世界が終わるときに、誰と何をして過ごすのか?
性ときってもきりはなせない心身をもったわたしたちのなかに生まれ続けるそれらの問いをはらむ『火口のふたり』。本記事ではきくちゆみこさん、工藤まおりさん、haru.さんによるコメントを、もうひとつの記事ではmaegamimamiさん、大島智子さん、たなかみさきさんによる絵と言葉をお届けします。
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「これは愛ではなく、たしかに体と心を持った、人間についてのおはなし」(きくちゆみこ)
たとえばどうしていま、この瞬間、カフェで電車でエレベーターで、隣にいるこの知らない誰かに触れてはいけないのか、その理由なんてとうぜんわかっているつもりなのに、でも同時にわからなくなる時がある。わたしの心がこの体と、あなたの心がその体と、それぞれセットである限り、できること・できないことがあるままに、ジッとこの時間この空間に存在してしまえるふしぎ。
そしてまた別のところでは、はずかしさもみじめさもすべて受け入れたあとで、それでも永遠に他者のまま、誰かと出会い、別れ、またそのくり返し、くり返し。これは愛ではなく、たしかに体と心を持った、人間についてのおはなし。ダイニングルームでバーのカウンターで、いろんなものをいろんなやり方で食べ、いろんなグラスで飲みものを飲んで、あなたとわたし、この体とこの心のセットでいま、まるで初めての人同士みたいに、まるで太古の昔からの付き合いみたいに、何度も何度も、できることがあるふしぎ。たのしい遊びに夢中になりながら、このきびしい世界を移動するふたりが、小さな子どもたちみたいにも思え、生きててくれてよかったなあと心から思いました。(きくちゆみこ)
「世界が終わる瞬間は、こんな風に生活していたい」(工藤まおり)
「身体が求めていることは、本当は自分の心も求めているものかもしれない」
率直にそう思った作品でした。
「今夜だけ、あの頃に戻ってみない?」
その言葉を合図に、お互いの身体を確かめあった過去を蘇らせた2人。与えられた時間は、直子の結婚相手が戻ってくるまでの5日間。
余すところなく2人の時間を追求する彼らのSEXは、自然に生活に溶け込む一方で、ときに、あえて背徳感を感じさせるような意思も感じました。
終わりのある未来を見つめながら、最後の最後まで、身体が求めるままに、快楽に身を任せる2人。
そんな2人を眺めながら、「世界が終わる瞬間は、こんな風に生活していたい」と素直に憧れを抱くのです。(工藤まおり)
「明日を生き延びなければいけないすべての人へ」(haru.)
私が日常に慣れてしまうことに対する恐怖のわけを
二人が淡々と映し出してくれた気がした。
私はこの映画を見ながら、ある人を想った。
私たちはたくさんの話をした。
たくさんの食事をした。
肌を重ねたこともあった。
政治的な思想は違った。
私はデモに行った。
彼は行かなかった。
「愛している」という言葉を
私たちの関係性の中で使っていいものか悩んだけれど
愛している以外の言葉を生み出すこともできなかった。
私たちの身体は、言葉は、社会のものだった。
自分の身体のいい分をもっと聞いてあげたかった。
彼は海に還ってしまったけれど
残された私は今日も朝を迎え、夜を迎えようとしている。
明日を生き延びなければいけないすべての人へ
夏の生ぬるい夕方の風のように、肌に残る作品です。(haru.)
『火口のふたり』(オフィシャルサイトを見る)