吉野舞:石セラピー
人をずっと見ていると疲れませんか。だからもっと自然を見よう。自然の中に行くと気持ちがとても落ち着くってことは知ってるよね。そんな中、私はよく「石」に触れています。
いつのまにか旅先で石を拾ってコレクションすることが人生の醍醐味になっている。最近はなかなか旅をできないけど、以前は友達が上手いこと日本中に散らばってくれたお陰で、一反木綿のようなフットワークの軽さで全国各地へ遊びに行っていた。友人に会うとすぐ、「私を水辺に連れてって」と甘えた口調でお願いし、一緒に海や川など石がたくさん転がっている所に連れて行ってもらい、石拾いを実行させるのだった。
拾う場所には複数人で行っても、石探しの作業は制限時間を決めてひとりで行うのがマイルール。なぜなら初期の頃、夢中で石拾いをしていたら、気づくととっくに日が暮れていた。そして次の旅の予定が白紙になり、それが原因でついつい友達と口喧嘩をしてしまいその後の旅の空気はもう最悪でしただいの大人同士の喧嘩理由が「石拾い」って、恥ずかしいですね。
石を見ていると、「自由」の匂いがプンプンしてなぜか励まされます。「その辺のどこにでも転がっているから?」。違う違う。これがどうしてか本気で考えたところ、石という「自然」の素材と交流できて、自然と人間の間にある「距離間」に気づけるからだと思います。自然って本当に美しいですよね。形には秩序はなく、ただ混沌と存在している。そこには全く意図が見えないからでしょうか。
だけど、私たち人間だって似たようなものだと思うんです。感情には波があるし、何一つとして同じ身体は存在しないし、体調は良くなったり悪くなったりと、身体の中には混乱を抱えていて自然の部分を持っている。その混乱と共に街で普通に生活していると、良い年の取り方とか生活のリズム、感情の対処法などなど、「そこまで決めないとあかん?」と首を傾げるくらい、なんでもかんでも「型」にはめ込みすぎではないと思うんです。
もちろん全ての社会ルールが無意味だと思いませんが、年齢や役柄関係なく、その人本来の力を活かせるチャンスがもっと増えたらいい世の中になっていくと思いませんか。
その点、自然の中にいると男か女かの性別も、何をしている人なんかの肩書きも関係なく、独りきりでいるエクスタシーを思う存分に感じとることができる。身体を動かし、全身全霊でいい石を探すことにアンテナを張って没入していると、すっかり脳みそがぬるま湯につかり、何も考えずにすむので、心身共にすっきりするんです。さっきまで痛いところがなくなっていくみたいに意識と無意識の間でぼんやりとしながら、「ああ私、ありとあらゆるものを身体に詰め込んでたんだな」と痛感します。社会に従って生きるのか、自然に従って生きるのか、世の中この二つのバランスを上手にとっていけたら生物学的な生き物として、口角を上げて生きていけるはずじゃないかな。この方法を私は勝手に「石セラピー」と名付けています。そう、「石セラピー」。名前だけだとうさんくささしかないですね。
集めている石は部屋に置いておいても邪魔にはならないし、洗濯物が干しっぱなしで散らかっている1Rの部屋でも、そこにあるだけで優雅な気持ちになる。ひとつひとつが思い出の地で拾ったものだから、誰と拾ったかとか、この時期にあんなことに悩んでいたなとか、もちろん自分しか知らない個人的な思い出ばかりを、石が意思表示してくれているようでつい話しかけたくなってくる。そうした一つの優しさが、そこに存在していることにも癒されています。
もし今度どこかで「石セラピー」を行う機会があったら、ぜひ感想を聞かせてください。
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