たとえ他の人に理解されなかったとしても、自分だけの好きなものを持って生きてゆくのは尊いこと。She isでは、リクルートスタッフィングとBEAMSが運営するサイト「出会えた“好き”を大切に。」と連動して「エッセイ:『好き』をおいかけて。」の連載を行っています。今回は、パンダ、縄文、タイムトラベルSFをこよなく愛する藤岡みなみさんによるエッセイをお届け。
好きなものをみつけるたび、私が私になっていく気がする。好きなものって、自分という星座を作っている星のことだ。星たちはいつも、新しい宇宙に連れて行ってくれる。そして、振り返ると面白い形に手をつなぐ。
多趣味だね、と言われることがある。子どもの頃からずっとジャイアントパンダが好きで、いまも「パンダ好きの人」と呼ばれることが多い。26歳で縄文時代に目覚めてのめりこみ、縄文の応援大使をつとめている。タイムトラベルSFが好きで、去年からタイムトラベル専門書店utoutoという本屋をはじめた。他にも好きなものはたくさんあるけれど、今回はこの3つの宝物を取り出してながめながら書いてみようと思う。
子どもの頃、何度か転校を経験した。友達が増えてラッキー、と強がっていたが、本当は足が震えていた。だんだんわかってきたのは、文房具や体操着入れなど身の回りのものをパンダ柄で揃えると、それかわいいねと向こうから声をかけてもらえること。会話の糸口でもあったし、覚えてもらうためのトレードマークにもなった。名前の横に自分のしるしみたいにパンダを描いた。白い丸と黒い丸を組み合わせれば5秒で描けるおまじない。そのかわいいけどかわいすぎないところがなんかいい、と思っていた。でも多分まだ、本当の意味で夢中にはなっていたわけではなかった。
夏休みの自由研究でパンダについて調べることにした。こんなにパンダパンダ言ってるわりにパンダのこと全然知らないな、と思ったからだった。なぜ白と黒なんだろう、なぜ竹を食べるんだろう。図書館の機械で検索して、パンダ関連の資料を片っぱしから借りてみる。大人向けの本が多くてよくわからなかったけれど、わかるところだけ読んでいくうちにひとつだけ心に残った記述があった。
「パンダの祖先は約700万年前には存在していた。氷河期を乗り越えるために、主食を肉から寒さに強い竹に変えた」––これを読んだ瞬間、小学生の私の心はクーラーの効いた図書館から700万年前の雪山にワープしかけた。ななひゃくまんねん……果てしな。そのほとんど宇宙的な途方もなさに身震いしただけで、完全に想像することはできなかった。パンダはせっかく氷河期まで乗り越えたのに、人間による環境破壊の影響などですっかり数が減ってしまう。世界のパンダの数、およそ2000頭以下。そして同時に、人間の保護活動によって数を盛り返した動物の珍しい例でもあった。保護するのが遅れていたらもうパンダはいなかったかもしれない。およそ700万年の時を超えて、パンダと自分が同じ時代を生きているのが驚異的なことのように感じた。それからは、なんとなくかわいいからではなく、ロマンを感じるからこそパンダが好きだ、と思うようになった。パンダは果てしない。
20歳を過ぎてもまだまだパンダが好きだった。もっとパンダに近づきたいと、中国語を勉強し、中国・四川省のパンダ繁殖研究基地に行って数日間飼育ボランティアをさせてもらったりした。現地ではパンダを野生に返す研究も進んでおり、そのために周辺の自然環境が全力で整備されていた。パンダを救うことで自然も守られる。私が絶滅危惧種について考えるときや、自然環境について考えるとき、いつもスタートラインにいるのはパンダだ。パンダは目印に、灯りに、扉になった。一度見つけた好きの星は、どんどん世界との関わりを作ってくれる。パンダを追いかけて中国に行ったことで四川料理も大好きになった。好きを辿って芋づる式にまた好きなものに出会うことも多い。
20代後半から縄文時代にハマった。きっかけは函館で中空土偶を見たことだ。その土偶の表情がなんとも間抜けというか(見る人によっては勇ましいらしい)、ナンダコレというつかみどころのない存在感にハッとし、そういえば土偶のこと縄文時代のものってこと以外何も知らないな、と思った。まだこのときは気になる程度だった。
東京に戻り、すぐに上野・東京国立博物館の考古展示室に行った。旧石器時代から江戸時代まで、時代順に展示品が並べられていた。順路に沿って歩いてみると、他の時代の出土物は黙っているのに、縄文土器だけウォー! と言っている気がした。ぐらぐら煮えていると思った。土偶だけじゃなく土器からも生命力を感じる。そんな、ごてごて派手派手しい縄文土器の横に、シンプルな薄焼きの弥生土器が並んでいた。土器を見ただけの印象で、縄文人は合理的ではない豊かさを追求して、弥生人は合理的な豊かさを求めたのではないか? という気がした。日常で使いやすいのはどう考えても弥生土器だろう。でも無駄なものを愛していそうな縄文人と絶対に友達になりたい。
このとき縄文時代にグっときたのは、そもそも「土偶ってなんだっけ」という問いを持ってここにやってきたから、ということもあるし、ちょうどそのとき合理的な都会の生活に疲れていた、ということもある。はじめて縄文に出会った場所が、長年仕事をして愛着を持っている北海道だったということも大いに関係している。疑問、タイミング、背景。なにかにときめくとき、私が私であることの偶然が、運命として輝く。
縄文時代に目覚めたことは、私が初めて歴史の中に共感するものを見つけた瞬間でもあった。これまではどう頑張っても歴史の教科書に感情移入することができなかった。縄文時代の遺物は、武将や殿様といった偉い人の記録ではなく、庶民の生活の痕跡、大衆のクリエイティビティだった。だからスッと共感することができたのかもしれない。私が縄文人だとしてもこういうの作ったかもな、という土器がある。土偶を見ていると、面白い人があちこちにいたな、とわかる。過去に共感することは可能なのだ、という気づきはとても大きいものだった。そして縄文を経由することで、他の時代にももっと興味を持てるようになった。例えば弥生時代ではどうしてアッサリ路線の土器に転向したのかとか、縄文のおかげで最初から問いがある。好きは基準になる。心のブックマークを縄文時代に挟んだ。
去年から、タイムトラベル専門書店という本屋をはじめた。子どもの頃からタイムトラベル小説が好きで、ベッドや電車の中でいつも別の世界へと旅していた。だけど、パンダにロマンを感じなければ、縄文時代に共感しなければ、きっとこの本屋を始めることはなかった。ファンタジーだと思っていた遠い世界への入り口がすぐそばにあることに気がついた。パンダや縄文によって広がったのは、世界の縦軸。タイムトラベルはある、と本気で思う。タイムトラベル能力って、過去や未来への感受性のことなのかもしれない。扉は世界中の本の数と同じくらい無数にある。
パンダ、縄文、タイムトラベル。振り返ってみると、好きなものが星座のようにつながって、また新しい道を照らす。好きなものとは単に趣味だけの話ではなくて、グっときた瞬間の歴史であり、私の輪郭そのものだ。心が動く瞬間ってそんなにしょっちゅうない。好きは、最初はハートの形じゃなくて、ハテナの形でやってくるかもしれない。おやおや? と思ったその瞬間をのがさないように両手で包んで、今日もやさしく息を吹きかけてみる。そうして生まれた星の赤ちゃんを抱きしめていたい。