「社会人」という不思議な生き物になって、真っ先に頭に浮かんだのは「喪服を買わなくちゃ」ということだった。大人になるということは「周りの人がどんどん死んでいく」ことだと小さなころから気づいていた。
「本当のたいせつ」な人は、いつ死ぬのだろう。この年になるまで、身近な人を亡くしたことのない私は、いつか迎えるその日に備えて、予行演習のように、すきな人たちを何人も殺し、妄想をくり返してきた。
「本当のたいせつ」な人が死んだとき、私はどれくらいの心を持っているのだろう。どんな姿でその人のとなりに居るのだろう。悲しみとか、憎しみとか、そういう心をぶら下げたまま、適当な喪服を買いに走って、後日もっと落ち込むのはゴメンだ。すきな服しか持ちたくないのに、思い入れのない1着がクローゼットに存在し続けるのも最悪だし、私はケチだからこの先10年くらいは、渋々それに袖を通し続けるに違いない。そう考えると、喪服をちゃんと準備しておかなくてはと思う。死は、死んだ人のものではなくて、残される人間のものだと思う。死は最後のプレゼントだと、誰かが言っていた。
そんなことを考えながらも、いざ喪服を買ってしまったら、おいでおいでと、死を招き寄せてしまいそうで、喪服が肩に重くのしかかる日々である。
2017年夏。待ち合わせに15分ほど早く着きそうだった私は、たまたまデパートの前を通りかかった。「ブラックフォーマル・セール」という広告に吸い寄せられるように、店の中へと入った。
セール会場には、襟が付いていたり、レースが施されていたり、少しずつ異なった、でも似たような黒い服がずらっと並んでいて、ちょっとクラクラした。できるだけシンプルなものを探すけれど、喪服のことがそもそもよく分からないので、すぐに手が止まった。すると突然、恰幅のいいおばさん(店員さん)が「これが絶対いいです」と、目の前にアンサンブルを差出してきた。それは先ほど真っ先にスルーしたジャケットとワンピースのセットだった。
「試着してみましょう」と手を引かれ、言われるがまま着てみたところ「おー」と声が出てしまった。ぴったり。私の顔にも身体にも似合っている感じがした。「これはオールシーズン、どんなシチュエーションでも大丈夫。肘も隠れますし、前にファスナーが付いているので楽に着られます。少し余裕があるので、太っても平気。なにより、これ普通に買ったらとても立派な値段です。いいものです」
かなり強引なおばさんだったけれど、その話し方と佇まいは、プロフェッショナルだった。説得力と安心感。私はなんだか催眠術をかけられたかのように、あっという間にお会計を済ませていた。プロから服を買った誇らしさと、興奮と、嬉しさとが私の心の中でダンスしていた。わーい。
私のデパート入学は、うんと小さなころだった。祖母とのお出かけは、だいたいデパートへ行くことだった。おめかしして、買い物して、お子様ランチを食べる。どこかのお嬢様になったような気持ちになれてすきだった。しかし、中学生くらいからデパート不登校が始まった。堅苦しい特別な感じが、逆に嫌になった。原宿とか高円寺で、着飾って歩くほうが楽しかった。しかし「社会人」になってから、私はデパートに復学した。お世話になりっぱなしである。「社会人」は間違えて学んでいく生き物では、もう許されないみたいで、服も何でもいいわけじゃない。そんなときはデパート先生だ。大人になっていく不安を、ひとつひとつ赤ペン先生してくれる。
いつか「本当のたいせつ」な人が死んでも、この正解の服があれば、一瞬くらいは私らしく居られそうな気がする。