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第七回:水着にあう

向田邦子が3か月分のお給料を投じた、1着の水着から

連載:前田エマ、服にあう
テキスト・写真:前田エマ 編集:野村由芽
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私は、ケチである。定期券圏内でなければ2、3駅分くらいは余裕で歩くし、ペットボトルは1年に2本くらいしか買わない。タクシーにひとりで乗ることもほとんどない。こういう話をすると「エコだね」と言う人がいるけれど、それとは全く違う。私にはお金はそんなにないけれど、時間はあるのだ、多分。
そんな私が今のところ、容赦なくお金を使うもの。それは服だ。
この先の未来で、実家暮らしに終わりが来たり、子供を授かり母親になったりして、お金をかけるべき対象が変化する可能性は大いにあるけれど、今現在、独り身で健康でお気楽な私は服を買う。
ケチして少し浮いたお金も、日々積み重なれば、憧れのワンピースになり得る。必死にお金を稼いだり、貯めたりする日々をくぐり抜け、纏う姿を妄想し、愛おしさを育み、そうしてワンピースと対面した時に、恥ずかしくない自分で胸を張れたなら、自分の収入には似合っていないワンピースだとしても、袖を通す資格が充分にあるような気がするのだ。

服を着る資格。それはお金ではなく、気持ちの問題であると思う。
向田邦子の『手袋をさがす』というエッセイがある。この中で向田邦子は、20代前半の頃の3か月の貧乏暮らしについて書いている。向田邦子は3か月分のお給料を、アメリカの雑誌で見た、黒いなんの飾り気もない1着の水着にしたという。
私は、向田邦子がその黒い水着を着て写っている写真を何度も眺めてしまう。カッコいいのだ。向田邦子の醸し出す空気と、気持ちと服とが似合っている。こういう女になりたいものだ。

『向田邦子 おしゃれの流儀』(新潮社)

私はこの写真を見るたびに、黒い水着が着たくてたまらなくなっていった。シンプルな黒い水着を着て、誰もいないプールで、ひゅーんっとスイスイ泳ぐ自分の姿が、何度も頭を駆け巡るようになった。
ネットサーフィンをして1か月くらい経った頃だろうか。ようやく心から欲しいと思える黒い水着を見つけ、購入した。1万円と少し。妥当な値段だ。その翌日、私はスイミングスクールの入会手続きをし、銀行でお金を振り込んだ。そう、私は泳げないのだ。

私の通っていた地元の中学校は、水泳の授業も男女合同で行われた。狭いプールは“泳ぐのが得意な人”“泳げる人”“泳げない人”の3レーンに分かれていた。ほとんどの生徒は真ん中の “泳げる人”のレーンに並んでいる。もちろん私も、そこへ並んで自分の順番が来るのを待った。
私の番がやって来た。唯一泳げる種目、平泳ぎを披露してみた。25メートルのプールの真ん中まで泳いだところで突然、背中をギュンッと押されたような気がした。びっくりして立ち上がり、顔を水からあげ、後ろを振り向くと、小学校6年間ずっとクラスが同じだったサッカーが上手な男子が立っていた。
「エマリアン、泳げないなら隣のレーンに行ってよ。お前のせいで後ろ詰まってるんだぞ」
私の身体は、手足を動かしているから多少は前進しているものの、泳いでいるというよりは “浮かんでいる”状況に近いようだった。
喉の奥が熱くなった。私は仕方なく“泳げない人”のレーンに移った。泳げないという事実も、3人ほどしかいない落ちこぼれ集団に属することになった現状も、サッカー少年に脚蹴りされたことも、全部がショックだった。体育の男性教師が、一生懸命に私にクロールを教授し始めたけれど、それどころではない私の涙と鼻水は、プールの塩素水に混じり溶けていった。
それから10年近く、泳ぐことから距離を置いてきた私は、爺婆だらけのスイミングスクールの午前の部に通い始めた。イトーヨーカ堂で、練習用の安価な水着を買った。半年ほど通い続けると、平泳ぎ、クロール、背泳ぎをマスターすることができ、バタフライもなんとなくは泳げるようになった。
このスイミングスクールが開館した当初から通い続ける88歳の女性の卒業セレモニーにも参加したし、夏休みだけ通っていた小学生の男の子とも仲良くなった。
深夜に放送していた水泳部を題材にしたアニメも観た。そのアニメは、スイマーが泳ぎながら見て感じる水の動き、水中の景色をとても魅力的に表現していて「こんな体験がしてみたい!」と、私のモチベーションを上げるのに大いに役立った。

泳げるようになってしばらくたった頃に、ちょうど季節が冬になろうとし始めた。自転車でスイミングスクールまでの寒い川辺の道のりを走る気力はないので、スパッと辞めた。
例の黒い水着を初めて着たのは、スイミングスクールを辞めてから半年ほど経った頃、祖母の傘寿のお祝いで箱根の富士屋ホテルへ泊まったときだった。ホテルには小さなプールがあった。家族でひとしきり泳ぎ遊んだあと、ひとりプールに残った。泳ぐというよりも、感慨深さで、たゆたう感じに近かった。水に浮かぶというのは、想像以上に気持ちがいいことだった。

PROFILE

前田エマ
前田エマ

1992年神奈川県うまれ。2015年春、東京造形大学を卒業。オーストリア ウィーン芸術アカデミーに留学経験を持ち、在学中から、モデル、エッセイ、写真、ペインティング、朗読、ナレーションなど、その分野にとらわれない活動が注目を集める。芸術祭やファッションショーなどでモデルとして、朗読者として参加、また自身の個展を開くなど幅広く活動。現在はエッセイの連載を雑誌にて毎号執筆中。

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