憧れが輝いていたときがあった。
小学生の頃、絵を描くのが得意な女の子たちは、みんな女の子の絵を描いていた。目が大きくて、きらきらした、少女漫画にでてくるような女の子。私も例に漏れず、落書き帳に女の子を描いた。私が描いたのは服を着た女の子だった。みんなが描く女の子も当たり前のように服を着ていたけれど、私は女の子が描きたいわけじゃなかった。私が描いていたのは服で、女の子の頭とか手とか足だとかはオマケだった。その頃の私は、服のことで頭がいっぱいだった。着たい服が、脳みそからはみ出して、街中を埋め尽くすんじゃないかというくらい、まいにち服のことばかり考えていた。描いた服は、テレビや街中で見たものもあれば、想像から生まれたものもあった。
憧れを妄想するだけで、心がうれしくなってしまうことに終わりがやって来た。
中学生くらいになると、ファッション雑誌というものを読むようになった。流行とかブランドとかが少し分かるようになって、欲しいものがちゃんとした形を持つようになった。ある日、ずっと欲しいとねだっていたロゴTシャツを買ってもらった。とんでもなくうれしくて、さっそく着てみたら、とても気持ち悪かった。服と自分との間に、びっくりするくらい距離があった。私はこの服に歓迎されていない。子供の私には、それがなぜだか分からなかった。
憧れが未来をつくる時代があった。
高校生になって、私は原宿と高円寺を覚えた。そこに行けば、着たい服に似たような服を、安く探し出すことができた。そうやって自分らしさを少しずつ知りながら、好きなものを明確にしていった。
憧れというのは、コンプレックスなのかもしれない、と最近おもう。自分には手に入れられないものを、人はいつも夢見る。
パグメント(PUGMENT)の服を着ると「これは自分のことなんだ」という気持ちになる。今年の春に発表されたコレクションでは、架空の女の子がネットサーフィンで欲しい服の画像を集める、というところからストーリーが始まった。女の子は気になる服があると、その画像を自分の姿が写った写真とコラージュする。あれが着たい、これが欲しい、着せ替え人形みたいに自分の姿が写った写真に服の写真を組み合わせる。そうやってつくられた憧れへのイメージが、コレクションでは服になっていた。服の素材は、デパートやビルの広告として使用されるターポリンや紙。いつもは消費されるだけのものが、新しくものを生み出す役割を果たしていた。
パグメントの過去の作品に、ロゴTシャツがある。ロゴの部分は、服を燃やした灰を使って刷られている。憧れていた服が、憧れじゃなくなったとき、その服を燃やして、新しい服の一部にしたのだ。
このロゴTシャツなら、私も着ることができるかもしれない。同じ罪を背負っている感覚が、私にもあるような気がする。
私はときどき、服と自分との距離感に、とても緊張する。服に近づくことが、怖くなったり辛くなったりするときがある。パグメントの服は、そういう距離感に対する心苦しさを大切にしてくれる。その心を持ったままでいいんだと、なんだか味方してくれるような、そんな服たちなのだとおもう。