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第一回:前髪をそっとはらうSheのこと〜編集者 R君の場合〜

失恋をきっかけにzineを発表。秦レンナの新連載

連載:HeのShe 彼らが思い出す彼女たちのこと
テキスト:秦レンナ イラスト:カナイフユキ 編集:野村由芽
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「喪失を乗り越えるために必要なのは物語ること」。
-ローリー・アンダーソン

31歳の秋、わたしは手ひどい失恋を経験した。そして一冊のzineを作った。それが物語の始まり。不思議なことに、そのzineを読んだ人たちは、今度は自分の番とでも言うように、失恋や過去の経験についてわたしに聞かせてくれた。そしてその語りべの多くは男たち(He)だった。彼らの話はどうしようもなくて、ロマンチックで、そして可愛く愛しかった。

誰かを好きになって味わった痛みや、忘れられない彼女の言葉、しぐさ、風景……。心のなかにしまいこんでいた彼女のことを、彼らは優しく話してくれた。この世界にはなんてたくさんの素敵な物語が繰り広げられているんだろう! そしてその物語がわたしの心の傷を、ほんの少しずつ癒やしていくのを感じていた。
みんなみんな恋をして、失恋をしてきたんだ。

彼らが彼女たちについて語るとき。そこにはわたしの知らない「彼」がいた。
目の前に座り、話し続ける「彼」を見つめながら、わたしはふと考える。
いま目の前にいるのは「彼の中の彼女」?

みんな誰かの物語の中に生き続けている。
だからこれはきっと、いつかの彼とあなたの物語でもあるかもしれない。

「吹く風の中に、罌粟の花の中に、海に飛びこむカモメの舞の中に、少しずつ彼女はいる。もう二度と会うことはなくても、目を向ければそこに彼女はいる。 灯台の中に、海を渡るあの長い光の脚の中にも彼女はいる。-略- 追憶の中の彼女。」
-ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』 岸本佐知子訳

 
 
水曜の午後、わたしとR君は新宿で待ち合わせをした。地下鉄から地上に上がると雨。15分遅れだ。わたしは信号の点滅している交差点へ思い切って飛び出した。
R君はもともとある雑誌の副編集長をしていたのだけれど、今年の2月、その肩書きを捨てて、フリーになった。彼曰く「原稿地獄から逃れた」今、なんだかさっぱりとして清々しいように見える。つまり、いい感じに。
待ち合わせ場所に現れた彼は、ストライプのシャツを着て、おしりのポケットには携帯と財布だけねじこんであった。なんて身軽。濡れた犬みたいなくしゃくしゃの髪、石鹸の匂い、薄いブルーのサングラス、目の下のほくろ。素敵。わたしたちは雨に濡れながら近くのカフェまで歩いた。

彼はいつでも礼儀正しく丁寧で、相手の言葉をゆっくりと確かめてから、自分の考えや思うところをきちんと言葉にしてかえしてあげる、そんな優雅さをもってる。

こんなことがあった。
その日は一時話題になった「ストロベリームーン」の夜で、わたしは嬉しくなって彼に月の写真を送りつけた。「今夜はストロベリームーンだよ! きれい!」
するとどんな返事が返ってきたと思う?
「夏目漱石の話を知ってる人なら、このメールにきっとドキドキしてしまいますね」。
英語教師をしていた漱石が「I love you」を直訳した生徒に「『月がきれいですね』くらいに訳しておきなさい」と諭した、というあの話のことだ。わたしは感激してしまう。
何が言いたいかというと、R君は、とてもクレバーで色っぽい男の子だということ。たぶん女の子を簡単に「落とせる」タイプの男の子だってこと。だけどそんな彼にも忘れられない彼女がいるらしい。

「彼女は、僕の前髪をそっとはらうんです」
R君は思い出す。まだ大学生だったあの頃のこと。
「彼女は酔っぱらうといつもそうだった。静かにすっと手を伸ばしてくる。僕はその瞬間が、わかる」
その時の彼女の少し困ったような、子どもや子犬でも見るような目つきや、眉毛の具合、徐々にクローズアップされて輪郭を失う細い指や、なんにも塗らない彼女の爪の色。いつもその時間だけがスローモーションになって、彼の脳裏に何度も焼き付いていった。
「“愛”なんて、よくわからないんだけど。でも、彼女のその仕種にはたしかに“愛”があって。僕は、自分の気持ちをおさえるのにただ必死でした」

「“愛”なんて、よくわからない」。わたしはだからこうして生きてるんじゃないの、と思う。よくわからないから、わかりたくてわかりたくて、きっとわたしたちは生きている。それは確かに、彼が気づきかけたように、そっと伸ばされる彼女の指先や、彼の前髪や、その2人を照らしていた居酒屋の電球の明かりのなかや、寝転んだソファの上にあったのかもしれない。

「不思議な目が好きだった。大きくもなく、細い切れ長の目ってわけでもなくて、とにかく彼女にぴったりの目でした」
それはアルバイト先での出会いで、一目ぼれだった。
「だけど、彼女には“彼氏”がいたんです。彼女は4つ歳上で、共通の話題といえば音楽のこと。僕はそれまで知らなかった音楽をたくさん知った。
あるとき彼女が“レッチリ”のアルバムを貸してくれたんです。後日、2曲目の“Parallel Universe”が一番好きだと伝えると、彼女は『わたしも!』と笑ってこたえた」

“Parallel Universe”の合意は、つまり互いを特別な存在だと確認し合うことと同じだった。2人で会う時間は楽しく切なく過ぎて、残されるのはいつも胸に刻まれた音楽と彼女の曖昧な輪郭だった。核心にはふれられない。

2010年。彼はニューヨークにいた。アルバイトで貯めたお金で旅立ったのだ。
冷たい青空の下で時おり彼女のことを考えた。場所が変わっても時が経っても2人の関係に答えは出ないままだった。
なんだかいてもたってもいられなくなって、R君は勢いよく足の裏にスケボーを滑りこませると、彼女のあの指先を振り切るように、思い切りプッシュした。

曖昧なものはいつまでも残る。「手に入れられそうで手に入れられなかった」のは彼女そのものというよりも、彼と彼女が常に合意し続けることのできる距離や時間だったのではないか。だけど、ある一つの音楽がそんな2人を一時強く結びつけていた。曖昧で形のない力で。そういうことってきっとある。

それに、もしも並行世界=「Parallel Universe」が本当にあるのだとしたら、愛しあう彼らが寄り添っている世界が今だってどこかにはあるのかもしれない。

わたしは彼の前髪を見つめてしまう。その向こうにある彼の目のなかに、彼女の「不思議な目」が重なっているような、そんな気がして。

PROFILE

秦レンナ
秦レンナ

新聞記者をしながら、選書、文筆、zineの発行などを行っている。 「BABY」「RIVER」を発売中。近日「MOON」を発売予定。

INFORMATION

HeのShe 彼らが思い出す彼女たちのこと
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