第五回:夢幻の町のSheのこと~シナリオライターS君の場合~

まるで異世界、幸せしか存在しない夢幻の町に暮らす彼女

連載:HeのShe 彼らが思い出す彼女たちのこと
テキスト:秦レンナ イラスト:カナイフユキ 編集:野村由芽
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「鬼子母神社の中、通っていいですか?」
わたしたちはさっきまでやきとり屋さんで少しだけ呑んで、お互い自己紹介をし、仕事のことなどを話し、そして池袋までぶらぶら歩くことにしたのだった。
鬼子母神社が好きでこのあたりにはよく散歩に来るのだと、待ち合わせ場所を決めるときに言っていたっけ。
S君は広島出身の29歳。シナリオライターで、今はある映画カメラマンについてのドキュメンタリーを制作中だという。
ちょっと中東の人みたいな彫りの深い顔。その容貌には不釣り合いな、まるで幼い少年のように澄んだ声で「こんにちは」とお辞儀をしたその礼儀正しさに、思わずほほ笑みながらお辞儀を返した。礼儀正しい人に会うと、こちらも襟を正したくなる。

彼の仕種にはなにもかも「そっと」がつくようだった。そっとグラスを持ち上げ、そっとお箸を使い、そっと話し、そっと笑う。
そんな彼の中にそっと生きる誰かがいるような気がして、思わずたずねてみたくなった。「ねぇ、忘れられない彼女がいる?」

「今でも思い出す人はいます。思い出す場所というか」
神社を通り過ぎ、途中でコーヒーを買って、明治通り沿いを並んで歩いた。
週末の池袋駅前は騒がしい。わたしはロータリーの脇の手すりに腰掛けて、彼の話の続きを聞くことにした。おそろいの服を着た双子みたいな女の子たちや、スーツ姿の男性やホームレスや、恋人たちや、カラオケから出てきた学生風の若者たちが目の前を何度も通り過ぎていく。わたしたちに気を留める人は誰もいない。

高3の冬、大学受験シーズン真っ只中のバレンタインデーのこと。S君は彼女からチョコレートをもらった。それまで話したこともなかったけれど、クラス合同の体育の授業で見かけて以来気になっていた彼女。平静を装いながらも心の中では舞い上がっていた。
「バレンタインデーにわざわざ好きな人を呼び出して、チョコを渡すだなんて、こっちが恥ずかしくなってしまうような素直さと、不器用さ。目も合わせられずに、むしろ悲しそうにうつむいている彼女の誠実な姿に感動すらしてしまって」
学校ではあまり友達とつるめずに、窓の外ばかり見て過ごしていたS君は、彼女に対し、同族意識のようなものを感じたという。

受験勉強が優先だった2人が、次に会ったのは卒業式だった。
式の後、彼女が君のもとへやって来て、控えめに「ボタン下さい」と言った。彼も控えめに制服からボタンを外してわたした。
結局、S君は浪人することを決め、彼女は大阪の大学に行くことになった。
「すぐに遠距離になってしまうけど、付き合ってほしい」そう告白すると、彼女はやっぱり控えめに頷いた。

「今でもよく覚えてるのは、広島で会った最後の日、彼女が『これ古着屋さん買ったんよ、可愛いじゃろ?』と言ってくるりと回ってワンピースを見せてくれたこと。それはいつも着ているのと同じような、小さな花がたくさん刺繍されたもので、僕には違いが全然わからなくて。だけど、それがなんだかすごく可愛いなーもう! と思っちゃったんですよね」

彼女が大阪へ行って1か月程経ったころだろうか、彼の頭の中は彼女のことでいっぱいだった。浪人生は勉強に集中すべき、なのだろうけど。
S君は「青春18切符」で12時間かけ、彼女に会いに行くことにした。

そこは山に囲まれた小さな平野で、大きな川が流れていた。彼女の暮らすアパートのまわりには、畑が広がり、そのなかにポツポツと住宅や神社、小さな工場があった。ベランダからは、水路のような小川がチョロチョロと流れているのが見え、上流から流れてきたミカンがあちこちに引っかかっていて、その光景がとても可愛らしかった。

昼間、大学に行っていた彼女が帰ってくると、2人は手を繫いでスーパーへ行く。街灯の少ない暗闇を、懐中電灯を持って歩いた。神社の中を通り抜け、枝葉がトンネル状になった坂を下り、小さな商店や町工場の連なる通りを過ぎ、大きな川の河川敷に出ると、満開の桜が咲いていた。一列に植えられライトアップされた桜は、見えなくなるまでずっと、果てしなく続いているようだった。
「淡い紫色の帯が暗闇の中を流れているような感じ。見上げれば満天の星空があって、地球が宇宙に浮いているってことが視覚的に確認できるみたいだった。その中を彼女と手を繋いで歩いてると、まるで異世界というか、幸せしか存在しない夢幻の町にいるように感じられました」
2人は夢幻の町で10日間を一緒に過ごし、S君は広島へ帰った。

「もしかして2人に肉体関係はなかった……?」
彼は首を振った。
「そういう関係をもたなかったのは、そんな生活に胸がいっぱいだったし、生々しい性的なものを、そこに加えたくなかったんだと思います。行為のあとで急激に現実に引き戻されるような気がしてしまって」

彼のなかにそっと生きている彼女に、わたしは聞いてみたかった。本当は裸になって彼と抱きあいたかった?
バレンタインデーにうつむいてチョコレートを渡すことが精いっぱいだった彼女が、そうしてほしいだなんて言えただろうか。
「もうそっと触らなくていいよ。しっかりと、触ってほしい。本当は……」

もちろんこれはわたしの勝手な想像なのだけど、そもそも、肉体関係をもつということは、何かを壊してしまったり失ったりしてしまう、ということなのだろうか? たとえば美しさや、彼女の存在や、彼が大切に思うなにかを。
確かに、愛し方に決まりはないし、愛され方にも決まりはない。
人は、満たされていれば性欲なんて失ってしまって、必要なんてなくなってしまって、そして愛し合うことができるのかもしれない。

それからしばらくして、彼からとても丁寧なメールが届いた。
「あの後、もう一度、彼女のことを思い出していました」

わたしがどうこう言ってこのラブストーリーを台無しにしてしまうよりも、実際にS君のメールを読んでもらいたい。彼がそっと保ち続けるかがやくような純粋さをわかってもらえるような気がするし、彼らの過ごしたあの町にわたしたちも近づくことができるかもしれない、という気がするから。

「それは今もどこかにあるかもしれなくて、ないかもしれなくて、あるとすれば、広島から12時間、鈍行列車に乗ると着く場所。僕と彼女しか存在しない、やさしい幸せだけがある町です。
そこに行けば、今の暮らしの悲しみも苦しみも全部忘れてしまえるような気がする。だから、もう一度行ってみたいんです。
あの町で過ごして以来、僕は彼女には会っていません。だから、なんだか今でも彼女は、僕が住む現実世界とは違う、夢幻の町にいるような感覚があるんです。18歳のまま、とても幸せそうに」。

PROFILE

秦レンナ
秦レンナ

記者をしながら、選書、文筆、zineの発行などを行っている。 「BABY」「RIVER」「MOON」を発売中。

INFORMATION

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