小学5年生のとき、クラスに転校生がやって来た。
ソフトクリームを溶かしたみたいな白い肌。目と髪は、蜂蜜を少し焦がしたみたいな色。身体は薄くひょろっとしていた。
私は当時、「エマリアン」というあだ名で呼ばれていた(SF映画『エイリアン』が由来)。
でも私は「この人のほうがよっぽど地球外生命体みたいだなあ」とおもっていた。彼からは生活の匂いがしなかった。過去も持っていないような、そんな透明さがあった。突然クラスにやって来た「星の王子さま」のような男の子だった。
それから、彼と私は同じ中学へ進んだ。彼は口数は多くないけれど、時々スッと周りを震わせる言葉を放った。誰かとべたべたするわけではないけれど、みんなに好かれ一目置かれるような、不思議な人だった。
ある日、文化祭の準備で、彼と私は一緒に作業をしていた。ポスターか何かを描いていたのだとおもう。彼はパレットに出された絵の具を指差して、私に言った。
「エマリアン、これって何色?」
赤だった。それは赤でしかなかった。
「オレ、色弱(しきじゃく)だから色がちゃんと分からないんだよね……」
「色覚異常」というものを、この時私ははじめて知った。私が、疑いもせず当たり前だと感じて見ている色を、違う色として認識している人がいる。そのことに、なぜだかとても感動した。
彼の秘密を知ってから、私はぐるぐると色について考えるようになった。多くの人とは異なる見え方をしていることで、彼は今までにたくさん大変なおもいをしてきたのかもしれない。だから、こんなことを言うのはどうなのだろうか、という気がするけれど、言ってみようとおもう。色というのはそれぞれの持ち物みたいなものだ。
「赤」と聞けば、だいたい人は同じような色を思い浮かべるだろうし、「ピンク」と聞けば、赤に白を混ぜた色を想像するはずだ。けれど、本当のとっておきの、自分にしっくりくる「赤」とか「ピンク」を、みんな心の中に持っているような気がする。色は、目で見るのではなくて、心で見るものである気がするのだ。
彼は、他人が見ている色をたくさん想像しながら生きてきたのだとおもう。その世界を私は知ることができない。でも、私が見ている色を他人が同じように見て感じることだって、本当はできないのだとおもう。だから私は、絵を描いたり文章を書いたりする。「私の感じた色を伝えたい」と願う。その信念のようなものの根底には、彼の秘密がいつも根を張って、見守ってくれている。
私は赤いワンピースが好きで、毎シーズン集めようという「賭け」のようなことをしている。赤いワンピースは世の中に有り余るほどあるけれど、私の心にスーっと飛び込んでくるような赤には、なかなか出会えない。かなり難しいことであるのは、なんとなく分かっている。私の赤と出会うということは「この人の汗の匂いが好きだ」とか「この人の皮膚をずっと撫でていたい」とか、そういう果てしない場所に存在する、私自身にしか気持ちがいいと感じることができないものだとおもう。
だから、本当にびっくりしたのだ。ある日、赤いワンピースを着た女の子の写真がInstagramに流れてきた。私の心はぎゅいいいいいいんと唸った。そのワンピースの赤は、私の中にある赤だった。なんだか正夢を見ているような気持ちになった。こんなことも、世の中にはあるんだな~。これががラフォーレ原宿に店を構えるブランドLEBECCA boutique(レベッカ ブティック)との出会いだった。
LEBECCA boutiqueの服には、全て名前がついている。それは、服をつくった人の思い出話や、服についての架空の物語から名付けられたものだ。言うなれば私にとっては関係のない他人の物語だ。そんな他人の物語から生まれた服が、私の服になった。同じ景色を見てきたわけではないのに、同じ色を見つめている人がいる。私の心は高鳴った。そのことになんだか悔しさを覚え、そして感謝した。