「化粧は悪いこと」
この言葉を私はずっと、お守りのように、呪いのように、心の中にぶら下げて生きてきたのかもしれない。
小学校高学年になったころのことだ。鬼ごっこ、お絵描き、ドッジボール、漫画を読む。そんな平凡な遊びの中に、突如「ファッション雑誌を見る」という項目が加わった。大人の匂いのするそれを、私も友人たちもすこぶる気に入った。
ファッション雑誌は、毎月のようにきらきらとした夢を運んでくる。はじめのうちはページをめくるだけで心が踊っていた私たちも、それだけじゃ満足できなくなり、ヘアアレンジを真似したり、ブランド物の服を親にねだるようになっていった。
そんなある日、待ち合わせにやって来た幼馴染が、化粧をしてきた。ドーナツの上にかかっているストロベリーチョコレートのような色が唇を覆っている。ガラスを粉々にしたような、きらめく銀色の粉が瞼の上にのっている。
確かに可愛いような気はしたけれど、似合っていないなと思った。恥ずかしさに似た気分になった私はその日、彼女の顔をなるべく見ないように過ごした。
大人になると、多くの日本の女の人は化粧をする。身体が成長するとブラジャーを身につけるのと同じように、化粧も当たり前にするべきものなのだろうか。
私の母は「化粧は一度始めるとやめられないから、しなくてもいいに越したことはないのではないか」と言う。私の祖母は、社会人になっても化粧をしない私に「ファンデーションくらい塗りなさい」とブツブツ小言を言う。確かに化粧は大人のマナーなのかもしれない、とも思う。
私は幸運にも、肌がきれいらしい(ヘアメイクさんや友人によく褒められる)。そして、会社勤めではない仕事をしているので、化粧から離れた場所で生きていても、なんら問題はなかった。
私はレースや、リボン、フリルといったガーリーな服を好んで着る。しかし25歳になったころ、去年まで着ていた服がどうも似合わなくなったのだ。
年齢に逆らおうとは思わないが、どうにかして大好きなワンピースたちを着たい。そう思っていたときに出会ったのがヘアメイクアップアーティスト・草場妙子さんの本だった。草場さんの本にはまず「服を着るのと同じ感覚でメイクをする」と書いてあった。
・メイクもファッションの一部。服とコーディネートする、ということ。
・小さな鏡で顔だけを見て完結させるのではなく、少し離れたところから全体のバランスを見てみること。
・まずは3本のリップを用意し、服に合わせて変えてみること。
私は早速、草場さんの本で激推しされていたブラウンのリップを買ってみた。落ち着いた大人な色だと思っていたけれど、塗ってみると意外なほどに顔に似合う。そうしてガーリーなワンピースを着てみたところ、顔が服に似合ったのだ。
大人の女でも少女でもない中途半端な私の顔に、ブラウンのリップをひくとキリッとした顔になり、どちらかというと大人の顔になる。そこにガーリーな服を合わせると、ちょうどよいバランスになった。
リップをひくだけで、ひとつアクセサリーを手に入れたような、そんな面白さがあった。それからちょくちょくリップをひくようになり、私は今の年齢の自分なりの方程式を手に入れた。
まだほかの化粧には手が回らないけれど、肌の質感や、眉毛の印象を変えられるようになったら、いつもと違う服の表情を見つけられるのかもしれない。
少し前のことだが、私にはどうしても忘れられない化粧の思い出がある。
ある朝、私は鏡の前で化粧をしていた。化粧と言っても、肌色をした日焼け止めを塗っていただけなのだが、となりに居た男の人が「エマちゃんって、お化粧するんだね」と言ったのだ。私はなんだかすごく悲しい気持ちになって、すぐに洗面所で顔を洗った。
そういえば私は幼いころから、化粧をしている最中の母や祖母の姿が好きではなかった。その姿には恐怖にも似た必死さが漂っている気がして、彼女たちが化粧をしている姿に出会うと、近くにできるだけ近づかないようにしてきた。『鶴の恩返し』のような、見てはいけないもののような気がしたのだろうか。
あれほど嫌だと思っていた姿を大切な男の人にさらしてしまったことが、私は恥ずかしくて悔しくて、そのあとの数日間は、ひどく落ち込んだのだった。
私がずっと「化粧は悪いこと」だと感じてきたのは、口紅をひいたりマスカラを塗ったりする姿を、あまり美しいと思えなかったからなのだと思う。「秘すれば花」という言葉があるけれど、自分の為だとしても、誰かの為だとしても、化粧する姿は隠しておく方が、なんだか粋な気がする。
いつか化粧がもっと上手になって、服を楽しむのと同じくらいわくわくする日が来たとしても、私はこそこそ、誰にも見られないように、化粧をする姿を恥ずかしがるような、そんな人でいたいなと思う。