ある夏の日の夜に、母親から一通の封筒を渡された。その封筒には、懐かしいマークがひとつ、印刷されていた。それは、私が1歳から4歳までの間、3年ほど通っていた保育園の閉園の知らせだった。
私はその保育園のいちばん最初の園児だった。駅前のビルの、小さな一室に開園したばかりの保育園。園児の人数も10人いるかいないかで、年齢も様々。そこで出会ったのが、色が黒くてハスキーボイスな園長のトシコせんせいだった。トシコせんせいは明るくて優しい人だったけれど、保育園の先生というよりも、お洒落なカッコいいオンナの人、という感じの雰囲気があった。トシコせんせいは、園児のことを「小さな人たち」と呼んだ。「こども」とか「生徒」とか、そういう呼び方はしなかった。
閉園になってからしばらくして、トシコせんせいを囲む会が開かれた。約20年ぶりのトシコせんせいとの再会。覚えてもらえていないかもしれないという心配をよそにひとこと「エマちゃん、相変わらず可愛いお洋服着ているね」と言われたその瞬間、保育園で過ごしたまぼろしのような時間がからだのなかをいっぱいに満たした。
この保育園では私服で登園した後に園内着に着替えた。私は4歳の途中から、市立の別の保育園に移動したのだけれど、そこには園内着はなくてズボンスタイルで登園しなければならず、ワンピースが好きな私はものすごく気分が落ち込んだのを覚えている。トシコせんせいの保育園に、私はいつもお気に入りの洋服を着て登園した。先生方にその日のコーディネートを見せびらかせ褒めてもらうのが、毎朝の恒例だった。園内着はいくつか種類があって、どれもユニークで可愛らしかった。園内着があったのは、小さな人たちがおうちへ帰った後、汚れた洗濯物を減らすことで、家族で過ごす時間を少しでも増やしてほしいというトシコせんせいの想いからで、洗濯はすべて先生方が行っていた。
クリスマスやお月見、ひな祭りなどの行事があるごとに、ものすごく洒落たコスチュームを、先生方はつくってくれた。特に年に一度のパフォーマンスパーティーの衣装は、様々なテイストを取り入れた一風変わったセンスが詰まっていて、いま写真を見返しても感心する。目立ちたがりやの私は、自分の出番が終わっても舞台から降りようとせず、無理矢理引きずりおろされた記憶がある。
私の性格は、自分の気分に良くも悪くも正直すぎて、大人になった今でもけっこうワガママだと思う。しかし幼いころは、今を軽々凌駕する、もっともっとワガママガールだった。であるから、保育園で毎年開かれるハロウィンパーティで、いつも悪役担当だったというのは納得できるし、女の子でひとりだけバッドマンや魔女などの黒い衣装を着させられた当時の写真を見ると我ながら似合っているな、と感じる。しかし、私はいちばん仲良しだったMちゃんがお姫様みたいなドレスを着ていたのが、羨ましくて仕方がなかった。そのことをトシコせんせいに満を持して訊ねてみたら「私は誰にも、お姫様の衣装は着させなかったの。たぶんMちゃんが着ていたのも、お姫様ではなかったはず」とおっしゃったので、帰宅してから写真をよく見てみたら、確かにお姫様ではなく、勇敢な女戦士みたいな格好だった。
20年以上前のことだが、当時も保育園は不足していたようで、地元の保育園に入れなかった私は、毎朝電車に乗ってトシコせんせいの保育園まで通った。夜の23時まで預かってもらえ、夕食も食べさせてもらえたので、忙しく働く私の母親にとっては非常に有り難かったと思う。
この保育園は、今考えると当時としてはかなりユニークなところだったのかもしれない。2歳児を電車に乗せてキャンプに連れて行って、親元を離れて一泊させるのだ。まだ言葉もしゃべれないような小さな人たちの面倒を四六時中見続けるなんて、よほどじゃないとやろうと思わないことだろう。キャンプファイヤーのあいだ、ずっと泣き止まなかった私は、それでもケロっとした顔で帰ってきて、満足げだったそうだ。そのときのことは、不思議なのだが今でも鮮明に覚えている気がする。
幼稚園だと、図工などの学習の時間が設けられるのは当然のことだと思うのだが、ここは保育園であるにも関わらず、専任講師を迎え入れた様々なレッスンが毎週あった。アート、体操、英語は外国人の講師だった。トシコせんせいは、小さな人たちを習い事に通わせてあげる時間がない親のことを思って、こういうレッスンを積極的に取り入れたのだと思う。
他にも、ケルティちゃんというカエルのぬいぐるみを、当番制で自宅へ持ち帰り、ケルティちゃんと過ごした夜のことを日記に描いて先生に渡しお話しするというイベントが月に1度ほどあった。「一緒にお風呂に入った」とか「お洋服をつくって着せてあげた」とか、そういったことを描く。親の帰宅が遅く、小さなひとたちは家にお友達を呼んで遊ぶことが難しい。ケルティちゃんがその代わりになってくれればいいな、というトシコせんせいのアイデアだった。
しかし、そういった理想の保育の現場を維持していくことは、本当に本当に難しかったようだ。行政の方針の変更や、トシコせんせいの家庭の事情などもあり、もう頑張る力がどこをどう探しても残っていなかったそうだ。
この保育園はどんどん園児の数が増えてからも、クラスを年齢別に分けることはなかったという。それだけじゃなく、小学生の学童保育まで行っていたそうだ。
トシコせんせいを囲む会に集まったいろんな年齢の、小さかったひとたちを眺めていたら、なんだかいつかのまぼろしが瞼の上をぎゅっと抱きしめた。