書かなければ「なかったこと」になってしまったことを、明るみに、引きずり出す。
—川上さんのそういった思いは、どういうモチベーションから立ち上がってくるのでしょうか? もう随分と前から、自分ひとりだけの話では全然ないのかなと思っていて。
川上:書くためにはいろいろな動機があって、数学に性別がないように、物理に性別がないように、文学に性別がない、というポイントが当然のことながらありますよね。初期の頃は、その問題が自分にとって大きかったです。状況よりは、本質的なものがすべてだった。生き死に、存在、時間。まあ、今でも基本的にはそうなんだけれど。でも、年をとって、生活も、それから書き方もずいぶん変わって、「ここを照らすんだ、知りたいんだ」という対象が増えてきている感じですかね。
—小説の書き方も作品ごとに変わっていますよね。思春期の身体の変化を描いた『乳と卵』(2008年)から、中学生のいじめを描いた『ヘヴン』(2009年)、子どもを産まれてから、子どものまなざしで描いた『あこがれ』(2015年)。どれも照らしているテーマはもちろん、文体も同時に変わっていて。
川上:女性特集号の巻頭言にも書きましたが、根本にあるのは、「目の前に繰り広げられているこれはいったいなんなんだ?」といった、目撃したもの、あるいはまだ見てもないけれど気配を感じるものの、正体を知りたいということへの衝動です。そこには、女性の問題もあれば、子どもや政治や哲学的な問題もあって、すべてが絡み合っているその状況と、自分の技術を照らし合わせながら、形にしていかなければと考えています。
そこで本当は何が起きているの。
あなたはどこからきて、どこへいくの。
ねえ、いまあなたは、なんて言ったの?
(『早稲田文学増刊 女性号』川上未映子 巻頭言より)
川上:ただ、私はものを書いているだけだから、女性のために何かをしているという感覚はないんです。結局は書きたいことを書いて、自己実現をしているだけ。ただ、書かなければ「なかったこと」になってしまったことを、明るみに引きずり出すということはできるんじゃないかって。刺し違えてでも引きずり出す、みたいな感覚(笑)。それは作家たちが総力戦でやっていることでもあるのですが、書き尽くしたいという欲望と、あるいは書き尽くさないということで何かを書いているんですよね。……ただね、恵まれているキラキラした人にはあんまり関心がないんですよ。
—へえ! それはなぜですか?
川上:今回、女性特集をやっていてすごく苦しかったことのひとつは、書ける女の人というのはやっぱり恵まれている人だということ。文化資本があり、おそらく自分の部屋があり、自分について考える方法と、発表するという発想を持っている人。もちろん個々の努力もあるけど、話をすれば誰かが耳を傾けてくれるというのは、やっぱり恵まれている人なんですね。フェミニズムが問題にしてきたのも、アカデミズムの内部でのできごとだったわけで、選ばれた人たちのものでしたよね。
—黒人女性であるロクサーヌ・ゲイの『バッド・フェミニスト』(2014年)にも、フェミニズムは長く白人女性のものだったと書かれていましたよね。
川上:ほとんど文化資本がなく、何かを語る言葉を持たず、自分が女であるということを内面化していることにも気づかない環境に私は生まれて育ってきたので、いまこんなふうに文章を書いて発表する機会が与えられていても、私の世界はそこだと、これは心から思っています。そこにいた人、いる人たちのことを忘れたことはありません。私の仕事は、そこにあるもの、そこから見えるものを書くことだと思っています。まだその仕事ができているとは思えないけれど。
—それは、届けたい人が本を読まない人であるかもしれない、ということですか?
川上:うーん、なんというか……本を読むとか読まないとか、そういう以前の問題なんです。そういう世界なんですよね。やっぱり選択肢は多い方がいいんですよ。自分が生きている場所以外の世界があると知ることは、救いになるから。
Twitterでフォロー0、フォロワー4みたいな子がものすごく情緒的で迫力のある文章を書いていて、胸が熱くなるときがある。
—それでいうとインターネットには、その場所に届く可能性があるんじゃないかなと。川上さんが10年以上前にブログで発表されていた文章を当時のめりこむように読んでいたのですが、めちゃくちゃひりひりしていて、飲むように言葉が入ってきて、目が離せなくて。
川上:『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(2006年)の頃ですね。異様に切羽詰まっていましたよね。何もかもが過多でした(笑)。
—そうなんです。でもいま、ブログはお知らせ重視に。
川上:そうなんです、もう時間がなくて、お知らせだけに(笑)。
—そうそう、全然違う(笑)。
川上:生きていくうえでのすべての葛藤を言葉にする場所が、ブログしかなかったんですね。あれ、やばいよね。
—やばかったです。こんなものが読めるなんて、こんなものを書いている人がいるなんて! という気持ちでいっぱいになりました。10年前よりもさらに、Twitterなど手軽に文章を発信することができるようになった状況において、インターネットという手段を改めてどう思いますか?
川上:彼ら彼女らの心には、性とか芸術とか自尊心とか恐怖とか絶望とかが複雑に入り組んだ、言語化できない嵐がずっとやまないんだよね。いままで世界の側からいろいろなものを刺激として与えられ、救われたり、悲しんだりして、これから世界に対して自分だって何かできるはず、したいんだって思っている。ただ有名になりたい人もいると思うけど、必ずしもそうじゃない。世界は依然として目のまえにあるのに、本当はそれだけでもう充分なのに、そんなことわかっているのに、毎日苦しいんですよ。
そんなどこからやってきたのかもわからない「疾風怒涛鍋」を胸に抱えて、すべての瞬間においてぐつぐつ沸騰させてるんですよね。空焚きになって火事になるから! ときどきは水足してよ! みたいな(笑)。でも、人生でそう長くは沸騰しつづけられないし、みんな本気だし、美しいですよね。全力の泣き笑いというかね。そういうのを「承認欲求」って言葉で片付ける向きがあるけれど、私は彼女らの沸騰に、その言葉をつかいたくありません。
—川上さんがよくお話しされる、「一度きりの人生」の1回性という意味での美しさ?
川上:Twitterでフォロー0、フォロワー4みたいな子がものすごく情緒的で迫力のある文章を書いていて、胸が熱くなるときがあります。書く場所を獲得していくということは、感受性だけでも技術だけでも才能だけでも成立しなくて、人との巡り合わせも重要です。女性が本当の意味で「書く」というのはーー経済的な側面や、自尊心も含めてーー「書く」ということを獲得するのは、本当に難しい。まあ、これは、男の人もそうですけどね。「書く」ということは、すべての人に開かれているようで閉じられてもいて、難しいことだといつも思います。
—「書きたい」という欲望は不思議ですよね。動物のなかでも人間だけが、書いて何かを残そうとする。子孫を残すみたいだなあと思います。She isでは、書くことで身をたてている人以外の人にもコラムをお願いしたり、読者の方からもSNSのハッシュタグを通して意見を集めようとしていて。ひとりひとりの声や思いや言葉はもしかしたら小さくてたよりないかもしれないけど、集めることで新しい姿を見ようとしていて。
川上:それはすごくいいと思うなあ。