生きていればへこむこともあるけど、その悲しみをせめて怒りに変えていかないと、自分叩きになってしまう。(能町)
─パートナーや家族の関係において、お互いを愛しく思いながらも、にっちもさっちもいかない苦しいときもあるわけで、そういうときに第三者を交えて関係を維持するということは、これからもっと重要になってきそうですよね。さきほど能町さんは、「茶化している」という言葉でご自身の行為を語っていましたが、批評的にものごとを見て、身をもって実践・実験することで、現在のパートナー観を広げているようにも感じます。
能町:世のなかに対しては、怒りの感情がやっぱり強くあるんですね。多くの人には、何回か恋愛した後に結婚して子どもを産む、というような流れがある。その人たちを決して責めるわけじゃないけど、私はもうそこにいけないということにすごく大きなコンプレックスがあるから、それに対してレジスタンスのような思いがある。自分勝手な、子どもっぽい怒りと、そうすることで後に道ができるというような、少しは意義ある怒りと。どちらもあるんじゃないかな。
─能町さんの根底には怒りがありながらも、作品の形で発するときにはユーモアがありますよね。『雑誌の人格』シリーズで様々なジャンルの雑誌の読者層を細かく分析したり、『くすぶれ!モテない系』(2007年)の「モテない系」から「プロ彼女」に至るまでの「〇〇系」という命名だったり、マジョリティではない存在や、今までなかったことにされていた存在を照らすようなことを一貫してやられています。
能町:怒りをただ発散するというよりは、作品にして解消したほうが生産的だとは思っているので。「〇〇系」といった言葉をつくるのは半分遊びみたいところがありますが、なんとなくみんながかたまりとして捉えているのに見て見ぬふりをしているものがあると、そこにちょっと注目してもらいたいと思うんです。名前をつけることで、目に見えるものになるから。
ただ、はじめに名前をつけるときには、皮肉や批評という視点こそあれど、けしからんものとして発しているわけではないのですが、言葉が広まると、非難の意味合いで使われることが多いですよね。0か100か、善悪の判断に使われがちですが、もともとはもう少し曖昧なものを肯定するために名前をつけているという気持ちがある。
植本:言葉は難しいですよね。自分では言葉を尽くしたと思っても、伝わらないこともたくさんありますし。
─植本さんの文章は、「赤裸々」だとか「ここまで書くのか」とも言われることがあるのではないかと想像するのですが、書くということは、書かないことを決めているということですよね。そのラインのひきどころで戦っているからこそ、植本さんの文学が家族の形の枠組を広げていると感じるのですが。
植本:能町さんが言っていた「怒り」に近いかもしれませんが、自分の母への怒りや、社会に対するなんとなくの怒りのような感覚を、まわりの人との関係性を見極めながら、書いているようなところはあります。もちろん、人を傷つけないようにと思っても、傷つけてしまうことはあるし、そもそも誰も傷つけないことなんてできないかもしれないけど、それでも、そのぎりぎりのところは書きたいと思っている。まあ今回の『降伏の記録』で限界まで書いたので、ちょっとこれからは書き方も変わるかなと思っているのですが。
能町:まわりに対して怒りを感じるというのは、自分自身が相当常識にとらわれているからでもあるんですよね。常識にとらわれていなければ怒りもわかないし、それぞれが好き勝手に生きればいいわけだから。「愛し合う男女が結婚して、子どもを産んで育てることこそが正しい」みたいな、保守的で頑なな人格が自分のなかにもあって、その自分にたまに負ける。社会にも腹が立つけど、それよりもそこに簡単に負けている自分にも腹立たしい気持ちがあって。完全に自由になりきれない、そんな自分との戦いでもあるんです。
植本:たしかにそうですね。
能町:それから、あるLGBT系の映像作品を見たとき、その作品では様々なセクシャリティの人が登場していたんですが、そのなかで男性から女性に変わった人が一番メンタルが弱そうに描かれていたんです。それを見たときに、自分と同じ立場だからかもしれないけど、悲しむよりも腹を立てていかないと潰れるよ、とハッパをかけたくなって。
生きていればへこむこともあるし、落ち込み出したらきりがないんですけど、その悲しみをせめて怒りに変えていく、発散していくほうにいかないと、自分叩きになってしまうから。それで、怒るのを我慢しないほうがいいなと意図的に思っているところがあります。もちろん、別に日常生活で怒り狂っているわけじゃないし、見境なく誰彼かまわず怒るということではないんですけど。
複数の他者とやさしいゆるやかなつながりと助け合いの場が、生まれていけばいい。(植本)
─何かに違和感を持ったときは、必要以上に自分を責めて悲しむよりは、怒るほうがもしかしたら生産的なのかもしれませんね。そしてお二人が作品として表現されているように、怒りの感情を怒りのテンションのまま出さなきゃいけないわけでもない。
最後に、She isでは「だれと生きる?」という特集をおこなったのですが、じつは植本さんの『降伏の記録』のサインには、「誰と生きてる?」と書かれているんですよね。そこにはどんな思いがあったのですか?
植本:男女じゃなくても、結婚じゃなくても、本当は誰とでも、生きられるはずなんですよね。近い友人に、孤独が極まって命を断ってしまった人もいるから、今日聞かせていただいた能町さんとサムソンさんの関係をすごく心強く感じました。そういういろいろな道があるよって見せてくれるのは希望だと思います。
『降伏の記録』にも書いたのですが、「重要な他者」という言葉が心理学にあるらしくて。自分を形づくるのに関係していく親や友達のような、わりと近しい間柄の人のことを指すのですが、自分を良い方向に持っていってくれる「重要な他者」がいたらいいですよね。そしてそれは、一対一のパートナーシップに限らない。複数の他者とのやさしいゆるやかなつながりと助け合いの場が、より生まれていけばいいなと思います。だっていろんなことを一人に頼ろうとするから無理が出てくるんですよ。
─さきほど能町さんがサムソンさんとの関係において実践されたいとおっしゃっていた、お互いに恋人がいてもいいね、という話にも近いものを感じますよね。
能町:そうですね。私は今回、家族以外の人と初めて一緒に住んだんですけど、いいものだなと思って。別に結婚という形をとることが必ずしも良いこととは思わないけど、もっと軽い気持ちで結婚や同居ができたらいいなと思うんですよね。結婚っていうと、恋愛してセックスして、子どもを産んで……みたいなことを9割方の人がセットで考えていると思うんですけど、そうじゃなくてもいい。
私たちの場合は性的な関係はないし、恋愛もないし、でも一緒にいて全然不都合がなくて、楽しい。すぐに別れるかもしれないけど、このくらいのソフトな結婚がもっと増えてもいいんじゃないかなって。そこはきつい縛りをせずにやればいいんじゃないかと思っています。なににせよ、何かを強制されるのはとても苦しいことだから。
植本:私も、どこにも行き場がなくなったら一緒に住みたいなと思っている人がたくさんいます。話せば話すほど、能町さんにシンパシーがわきました。対談させていただけて嬉しかったです。
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